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602号 災害における最初動の構造

2011年05月20日(金)

  関東大震災に被災した岡本綺堂(1872-1939年)の様子は次のごとく。
 正午前に第一回の震動、山の手の番町あたりでは何回かの震動でも家は倒れず。玄関先に椅子や床机や花筵を掘出して、一時の避難所を作った。その時刻の頃には、都心のあちこちで火災の煙りが見え、関連するうわさや情報が入ってくる。風の向きは心配がない模様なので、ビールやサイダー、茶、ビスケット、果物を近所で持ち寄って、路上で一種の「路上茶話会」をひらいていた。
 そうしているうちに日が暮れる。電気がつかぬまま暗くなり、火の手は周りにひろがってくる。茶話会の群れは徐々に解散する。夜中の12時半になると、近所が急にさわがしくなる。しかし、まだ町内では荷ごしらえをする様子がない。そうするうちに危険のせまっているのを覚り、どの家も荷ごしらえをする。それから一時間の後には、町内一円が火に焼かれる。
 その頃はまだ郊外の田端に住んでいた芥川龍之介(1892-1927)の被災も、ここには記さないが、ほぼよく似た情況下であったことが書かれている。
 連休終りの5月8日に図書館で借りた本、綺堂随筆「江戸の思い出」、芥川龍之介全集(第6巻)には、どちらも大正12年(1923年)9月1日の被災の様子が随筆として入っている。芥川の全集目次に「大震雑記」などの地震の題があったので、これで二ヶ月近くになる東日本大震災のことを思いながら、この巻を借りたのである。そして偶然に綺堂の文庫本にも「震災の記」というのが含まれていたというのが実際である。
 この二冊の体験談を読んだ限りの感想ではあるが、そこからも教訓にできる点がある。
 大災害の最初の一撃は、都内の所によって影響は違ったはずだが、一撃のみでは大きな被害とはならなかった。むしろ、その後に来た火災の延焼が大災害を起したのである。二冊の随筆から、その間の時間は半日(山の手の番町)ないし1日以上(その当時は郊外の下町の田端)あったことがわかる。いずれにしても現代の眼からはのんびりした世界である。
 先日のNHKの東北地方津波災害ドキュメントでも、宮城県の名取川周辺の閖上(ゆりあげ)地区では、地震が起きたあとの片付けや掃除をしているころに津波が襲っている。かなりの時間差があったことになる。また校舎の上階に避難していた小学生達は、津波が時間を経過しても来る気配がないので体育館にいったん下りた。しかし偶然来襲に気がついた父兄の叫びによって、からくも元の場所に逃れたことがわかっている。
 単なる「初動」ではなく「最初動」というカテゴリーによって、発災直後の行動の迅速性を理解すべきとかねがね思ってきた。しかし、さらに詳しくみると、そこには第一撃と第二撃があり、二つの攻撃の間には、若干の時間差(災害の種類、場所などによって違う)が存在していることがわかる。第一撃で致命的なダメージを避けることは重要であるが、同時により対応が容易で且つ対応が重要なのは、第二撃に対する防備ではないかということである。「最初動」とその対応についてのこのような二重構造的な仮説を掲示したい。
 福島の原発事故においても、最初の地震動あるいは津波(この二者による被害の識別が2ヶ月経過してもまだなされていないのは問題であるが)による第一撃と、次の第二撃つまり全電源喪失による原子炉冷却機能の喪失に至るまでには、5時間ないし8時間程度の時間的余裕があったと思われる(この実際の時間については検証を要する)。どんどん過ぎていくこの限られた数時間が、原発事故対応における「最初動」の期間であり、その中で当事者ができることをどこまで実行できたか、ここに危機管理の成否がかかっていたように思う。
 これまでの大災害をふり返っても自然の猛威は、人間に対して無慈悲かつ不仁なものである。自然がわれわれ人間に偶然許してくれる唯一のチャンスも、油断するとそれはいよいよ短い時間でしかないのである。

(’11.5.15記)