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イッセイエッセイ

590号 人口減少の18世紀日本

2010年10月28日(木)

  十八世紀の江戸の政治や社会を包括的に、しかも問然するところがなく描写することは、きわめて難しさを伴う学問的な仕事であろう。
  倉知克直「徳川社会のゆらぎ」(日本の歴史第11巻 小学館 2008年)は、近世の100年間、元禄から寛政、綱吉(5代)から家斉(11代)まで十八世紀を、幕府の改革と「いのち」を守る民間の力、という視点をもとに記述している。
  現代の日本が直面している問題と類似した事柄が論じられており、それは停滞する社会像、少子高齢化社会、公と私の関係の再構築、財政改革などである。時代はちがっていても思わず対比したくなるようなテーマが展開される。
  平和な時代とみられる徳川日本に緊張を与えたもの、一つは時代に特別の意味を与えた災害との闘い、もう一つは「公儀」・「世間」など、「治」をめぐる社会でのせめぎ合い、この二つをこの時代の重要な歴史的視点(学問的な仮説)としながら、十八世紀の江戸時代を考察している。
  本書の中から、主に人口問題、都市と農村問題、公共の問題に関する部分について、以下に疎略な抜すいとコメントを記す。

  「江戸中期の18世紀は、人口増加や耕地拡大といった面からみれば、『停滞期』であった。17世紀初めから18世紀初めにかけては、人口は2.5倍に急増したのに対して、18世紀は4%台の減少、19世紀になると中盤までに8%台の増加であった」(14頁)
  十八世紀の人口減少・停滞という現実と成熟・繁栄というイメージとの矛盾、これを本書は「ゆらぎ」としてとらえている。

  「享保期の(災害)復興事業は、田中丘隅や蓑笠之助といった民間出身者を抜擢して進められた。彼らは在地の事情に明るく、農政についての確かな知識や技術を身につけていた。役人の不正や怠惰を憎み、民百姓の困苦を救いたいという熱意にあふれていた。彼らが書き残した著作にはそうした考えが繰り返し述べられている。彼らのような民政家を地方じかた 巧者こうしゃという。吉宗や大岡(忠相)は地方巧者を組み込むことで『公儀』の機能を維持しようとした。民間に蓄えられた力を『村里の知』と丘隅は呼んだ。『村里の知』によらなければ『公儀』の事業も進まなくなっていたのだ」(69頁)
  最近よく言われる「新しい公共」という概念と、時代はちがうが「村里の知」、「地方巧者」はやや似たところがある。村里の知の力による新しい「公儀」の拡大という理解である。

  「徳川綱吉や吉宗は、新しい社会状況に『公儀』の機能を拡大強化することで対応しようとした。そのために、藩や民間までを『公儀』の事業に動員するシステムが工夫された。しかし、『公儀』の機能を強化するためには、何よりも幕府財政の再建が不可欠である」(80頁)
  三位一体改革や地方分権、また最近いわれている「新しい公共」など、中央政府の行動は昔も今も似かよっているようだ。そして財政再建と公共性の見直しが表裏一体となっているのも。方法は元禄期と同じように吉宗の時代になっても、代官の不正摘発(大庄屋の廃止)と年貢収納の増強策。家重時代(1745~1759年)になると、「予算制度」というものが導入されて勘定所の力が増してくる。

  「綱吉時代になると集団の威力を背景にした強訴が目立ちはじめるようになる。18世紀の徳川日本は、いわゆる百姓一揆の時代でもあった」(87頁)
  「18世紀後半にあたる宝暦から天明期になると、この殖産興業策に関して為政者や知識人の間で『国益』ということが議論されるようになる。海保青陵や本多利明といった経世家が、交易を通じた利益の追及をめざす重商主義といわれるような主張を行った」(145頁)

宝暦期は1751―1763年、天明期は1781―1787年。

  「経済的に栄えている村ほど通婚圏が広い」(190頁)
  「奉公という労働は、庶民にとって二つの意味をもっていた。ひとつは、手っとり早い現金収入の手段であって、家計補助的な意味。もうひとつは、結婚前の若者たちが社会的な経験を積む場、という意味だ」(191頁)

  「この村(拙注 美濃国安八郡西条村)の特徴は、男女ともに、京都・大阪・名古屋といった遠方の都市への奉公が多いことだ。そのこともあって、奉公に出た者の三分の二が結局村に帰らなかった」(193頁)
  「西条村は、18世紀後半から19世紀前半にかけて人口が停滞的であったのだが、その大きな要因が活発な奉公活動にあったのだ。つまり、出稼ぎによる人口流出と晩婚化による子ども数のコントロールによって、人口増加が抑制されていたのである」(同頁)
  地方における都市への人口流動の出超状況が、現在の大学進学の社会減と酷似しているところがある。

  「19世紀前半に大きな変化があったことがわかる。それは女性と子どもの増加と特徴づけることができる。逆にいえば、18世紀はいまだ男性と老人の多い社会といえる」(206頁)

男性と高齢者の世紀から女性と子供の世紀へ。

  大阪の人口は、「元禄2年(1689年)に33万人、元文4年(1739年)に40万人、明和2年(1765年)には42万人に達した。その後は減少に転じ、文久2年(1862年)には30万1,000人になっている。人口減少の原因は、全国市場の中心としての大阪の地位低下による」(224頁)

江戸期後半には大阪は江戸に対して劣勢におちいっている。

  「地方はやり がみが現われた三か所ともに、江戸近郊の農村であったことは興味深い。いわば都市に接する境界領域であり、そこは非日常の場になりやすい。都市民の心性では、特別な霊威もそうした境界に現れやすいと考えられていた」(248頁)

  高田水稲荷(新宿区 眼病に効いた)、もとどり不動(墨田区 新田義貞の守り本尊)、夕顔観音(葛飾区 ハンセン病に効いた)

  本書のしめくくりは、なぜか「杉田玄白のみた徳川日本」という項目で終わっている。杉田玄白の残した「後見のちみ ぐさ」からの引用を行い、十頁余をさいて「18世紀を生き抜いた」若狭国小浜藩医の厳しい時代認識をもとに、そこにすでに芽生えていた玄白の時の政治に対する一種の天譴論てんけんろん、開国論、諸侯撰挙せんきょ論を紹介している。

(2010.9.11~10.16記)