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イッセイエッセイ

586号 続「イングランド社会史」

2010年10月20日(水)

  本書の後半部を先に読んだので、前半部分は逆に「続」になってしまった(579号参照)。


  「社会の構造とか変化のプロセスとかかわるのが社会史である」(12頁)
  「社会とはあくまで人間関係の網の目であり、理論上の集団ではない」(12頁)
  「ある社会もしくはある時代に特有な文化と、ほかの社会もしくは時代と共通する文化を見きわめたい場合には、細部の丹念な研究が概論的研究よりも、対象となる文化を照らしだしてくれることが多い」(12頁)
  「私は時代間で相互参照クロス・レファランスを試みた。ある時代(あるいはある世代)がべつの時代(世代)をどう考えていたのか、この問題は私にとってつねに興味深いことだからである」(13頁)
  「トレヴュリアンのある確信を強く支持したい。私たちが『過ぎ去った時代のそれぞれの全体像』をふたたびよみがえらせるように努めてみれば、『過去の人びとが自分たちの環境について知っていた以上のことを』私たちは知りうる」(14頁)

第一章 先史時代
  エピグラフの一つから。
  「先史は日常生活の根本を対象とする。先史によって、子供たちは人間にとって根本的に必要なものがなにかを考え、自分たちのまわりの世界に古代的な起源が存在することを知る。

D・P・ドブソン『学校教育における先史教授法』(1828)
」(17頁)
(2010.9.23記)

  「ヴィクトリア時代の地質学者は地球の歴史においてある時代の地層に特徴的な岩石を見いだし、それぞれに古代ブリテンにちなむ名称を与えた」(20頁)
(拙注)デヴォン紀(州名として現在残る)、カンブリア紀(ウェールズの古名)。
    オルドビス紀、シルル紀(以上の2つは古代ブリテンの種族名)。

(2010.9.24記)

  「食糧事情はどんな社会でも根本的に重要であり、考古学者は先史時代の食糧事情にかんするどんな断片的な証拠でも見逃してはいない」(27頁)

第二章 ノルマン征服以前のイングランド
  「ブリテン島の北部がアイルランドとともに最後までローマ帝国の版図に組み込まれなかったという事実は、のちのイギリス史にきわめて重要な意味をもつことになる。ローマ人はブリテン島全域を征服したわけではなく、境界の外側には数多くのケルト人たちが存在した」(44頁)

(2010.9.26記)

  「ローマ支配時代に築かれた都市は『地方の寄生虫』と評されることもあり、またローマ人によって都市に与えられた優位性のおかげで、『土俗の』イングランド人の思考に抜きがたい都市嫌いの偏見を生んだと指摘されている。なるほど貧富にかかわらず、『土俗の』イングランド人が都市より地方を好みつづけたのは事実である。このような因果関係を証明することはおよそ不可能であるけれども、R.G.コリングウッド(1889―1943)はこの問題を解説したうえで、その理由として『ローマ辺境芸術の恐るべき平凡さ』がケルト人の想像力あふれる精神を抑圧していたことをあげている」(63頁)

(2010.9.下旬)

第三章 中世前期のイングランド
  「中世の社会とは、教会ザ・チャーチ、すなわち普遍的教会の諸様式が、個人と家族の地域生活にかかわるおもな出来事すべてを包みこむ社会であった。(中略)都市の住人であれ、村の住人であれ、はたまた無教養なものであれ、教養人であれ、歴史や美、あるいは道徳、永遠についてなんらかの教えを得るとすれば、それはつねに教会から発せられていた」(105頁)
(拙注)中世の人たちは、このことを意識していない。われわれは現在にいるから、
    過去のことをよく知りうる(序参照)。

(2010.10.3記)

第四章 中世後期のイングランド
  「なるほど黒死病は、例をみないほどの大災禍であった。だが、最初の流行がもたらしたとされる結果のうち、一部はすでに黒死病が発生する以前から顕在化していた。たとえば人口問題にしても、たしかに13世紀には増加の一途をたどっていたけれど、おそらく14世紀初めには減少に転じていた。さらに腺ペストをふくめた疫病への抵抗力が、慢性の栄養不足によって低下していたのであろう。この時期のイングランドは、天候によって致命的な打撃を受けていた。14世紀初めにはいちじるしい寒冷現象がみられ、近年ではこの時期を『小氷河期』と呼んでいる」(128頁)

(2010.10.6記)

第六章 革命の17世紀
  「ジェイムズ一世の即位は、ピューリタンとカトリック双方の非国教徒から、エリザベス時代で獲得できなかった譲歩をかちとる絶好の機会と考えられた」(216頁) 
  「イングランドを内乱に追いこんだのは貴族とジェントリーであった。また、彼らの多くは内乱に追い込まれまいとしていたが、内乱から利益を得たのもしばしば彼らであった」(217頁)
(拙注)歴史における人々の意図と起こる結果の不可解さ。

  「社会における『進歩的な』要素によって率いられた『ブルジョア革命』というマルクスの考え方と、とくに商人的な利害集団がどの程度国王に反対して議会を支持したのかといった問題については、いまだに議論がつづいている」(218頁) 
  「マルクスによれば、イングランドにおける争いは封建的なイングランドにたいするブルジョアジーの争いであった。『権力は所有に従う』のである」(前頁217) 
  「しかしながら議会派にとって決定的に重要だったのは、富裕なロンドンが最初から最後まで議会の後ろ盾になっていたことである。ロンドンの商人には過去に王室と強いつながりをもつ者もいたが、1641年に追放の憂き目をみた『独占業者』の下院議員を除くと、残りの19人のロンドン選出の下院議員のうち18人は1642年の内乱の勃発にさいして議会を支持した。彼らは重大な局面をむかえると、議会に支持を与えていた」(218頁)
  「たしかにいったん戦闘がはじまると、急進主義への反発から、17世紀初めの基準からいえばけっして保守主義者ではなく、ときには急進的な宗教信条をいだいていた人びとも、保守的な傾向をみせるようになった。」(226頁)
  「宗教上は『国教会根絶派』に属していたクロムウェルも、『イングランドで数百年にわたって知られていた、貴族、ジェントルマン、ヨーマンという身分階層』が維持されることを切に願っていた点で、気のすすまない共和主義者にすぎなかった。この点においても、彼は『自分が平均的な人間にほかならない』ことをみせていたのかもしれない」(228頁)
(拙注)クロムウェルを、典型的なイングランド人、本質的に保守主義者とみている。  

  「社会的なピラミッドの頂点には160人の貴族がいた。その数は、ジェイムズ一世が気前よく55人から126人に増やしたことによって激増していたが、この数は17世紀をつうじてほぼ変らなかった。その下には1万エーカー(拙注 40k㎡)以上の土地を所有する、80人から100人程度の世襲貴族ではない階層が存在した」(230頁)  

  「ピューリタンのバニヤン(拙注 『天路歴程』の著者 1628―88)は『少年少女読本』の中でこう述べている――
    この郵便配達少年を見てごらん、
    馬車に乗れば、こんなに早く移動できるのだよ、
    馬車を使うのは当りまえ、少年の仕事は早さが肝心。
  イングランドの社会の中で『時間の有効な使いかた』をもっとも重視したのがピューリタンであった。」                                     (236頁)

  「1700年には全人口の16パーセントが、5,000人以上の人口をもつ都市に住んでいた。この時点で1万人以上の人口をもつ都市が7つ、5,000人以上の都市は23も存在した」(238頁)
  「1600年から1650年にかけて、全国の人口増加は停滞していたが、ロンドンの人口だけは倍増して40万人に達し、イングランドの人口のうちロンドンに住むものは(中略)17世紀末には9人に1人となった」(239頁)
  「大疫病と大火は寄ってたかってロンドンを『困窮と不満、苦痛と苦悩に陥れた』。しかし革命のあとに王制復古がつづいたように、大火のあとにつづいたのは急速で目をみはらせる復興であった。古いロンドンは消滅し、新しいロンドンが誕生した。」(239頁)
  「しかしながら、この革命に先だつ反乱と抗争の記録が存在しなかったら、名誉革命にたいする敬意ははるかに小さくなったであろう」(242頁)
  「チャールズ二世がクロムウェルを同様に、商人や銀行家からの借金をたよりにしていて、その結果、『シティの利権』を強化したことであった」(243頁)
  「1688年の革命以後、増大する政府の支出要求にこたえるため、精巧な公的負債システムが考案された。ここでも模範となったのは、ヨーロッパにおける経済の最先進国であるオランダであった。イングランド社会史において、イングランド銀行の設立は名誉革命に劣らない重要性をもつものであった。この銀行が確実かつ定期的な基礎に立って公的な借り入れを可能にし、政府に新しい歳入の基盤を与えたからである」(244頁)

(2010.10.11記)

  「アダム・スミス(1723―90)は『イングランド銀行は一般の銀行とおなじはたらきをするだけでなく、国家の大きな動力源なのだ』と述べたが、その時までにはロンドンばかりでなく地方においても、『一般の』銀行が数多く活動していた」(244頁)

第七章 18世紀のイングランド 富と権力と快楽の追及
  「17世紀は戦争で終わりをつげたが、18世紀も戦争で終わった」(249頁) 
  「発見の時代における大胆さを無謀と混同してはならない。航海は科学と科学的な器具にもとづいておこなわれており、事実、経験的な技術よりも科学の方が正確であった」(252頁) 
  「初期の興奮は消えうせ、代わって搾取が植民活動の動機になっていた」(253頁)
  「対オランダ戦争は費用がかさむばかりで不首尾に終わりはしたが、戦果をあげられなかったことで逆にイングランドの関心は、ヨーロッパにおけるオランダの経済力やチャールズ二世へ年金を支給するフランスの政治力からはなれ、はるか彼方の世界に向けられるようになった」(256頁)
  「イングランドでは、海軍は陸軍よりも上級の奉仕とされており、海軍の予算はイングランドの方がフランスよりも多かった」(262頁)
  「1775年に生まれたジェイン・オースチン(1775―1817)の秩序だった小説は(恐怖小説にたいするおだやかな皮肉がふくまれていて)、摂政皇太子<ジョージ四世>も賞賛するところであったが、彼女の存命中は18世紀初めの文人たちが受けたような賞賛の対象にはならなかった」(282頁)
  「イングランドの革命がフランス革命のような革命ではなく産業革命であったという事実は、平等よりも発展の方に重点がおかれることを意味した」(285頁)

(2010.10.11記←9.5)