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582号 光について

2010年10月08日(金)

  今日は正岡子規の亡くなった日であり子規忌あるいは獺祭忌ともよばれている。

  「真砂なす数なき星のその中に吾にむかひて光る星あり」、という浪漫あふれる歌は子規の作であるが、哲学者カントの言った「我が上なる星空と、我が内なる道徳律」をもちだすまでもなく、「光」に対してはいつも不思議な気持を抱く。

  色紙をたのまれると大体いつも「光」と書くのだが、文字が一字であり字画が少ないから選んでいるわけではない。

  われわれ人間ができること、できれば人間としてそうしたいこと、それはみずからがまず動作を起すことである。「光」を例にとるならば、他から明るい光を受けようとするのでなく、外に向けて自分の光を発すべきこと、このことこそ人間らしい意味と考えるからである。

  光ほど不可思議なものはない。

  まず、モノなのかどうかさえ定かではない。一秒間に地球を七回り半走る世界で最速のランナーであることは、先生からではなく小学生のころ上級生が教えてくれた話だ。だが、何故光はそれより速くも遅くもないのだろう。また、どうして真っすぐにしか(これも言い方が微妙)進まないのか、しかし水にぶつかると屈折するのは、なに故か、反射するのもなぜか。目の前の物がそのように見えるのは、光がぶつかって反射して目に入る結果であろうが、そんなに納得のいく話しでもない。色というものは、物にあるのか頭の中にあるのか、鏡は左右反対に見えるのに上下はそのままなのはどうしてか、などなど。

  ここ数日かけて「量子力学はミステリー」(山田克哉著 PHPサイエンスワールド新書 2010年9月)を読んだ。普通人向けにていねいに最後まで躓かないように説明している解りやすい本である。

  超ミクロの世界(この表現にも問題あるが)である「量子力学」の分野では、「光」は「粒子」でもあり、また「波」として確率的にもふるまう、というのがこの本の主眼の説明である。そして、いろいろと不思議なことが沢山書かれている。

  高校の物理では量子力学は最後の部分にあって、ほとんど学習する時間もなく、その頃の高校生には何がなんだかわからないような分野であったかと思う。

  しかし、これからの子供たちに対するサイエンス教育は、この量子力学に限らず、授業レベルの科学知識に対して、なぜそうなるのかを教える教え方は、教師としてすこぶる注意と技術がいるように思える。

  先生たちには、こうした種類の一般常識と専門知識の間を、わかりやすく橋渡しする勉強をできるだけ沢山してもらいたいものであり、子供たちにとって理科教育が面白くもまた充実した授業となるためのポイントとなろう。

  グローバル化した昨今、個人のつながりが切れてしまい、一人ひとりが個化しアトム化している・・・・といった社会評論をよく目にするようになった。

  量子力学のミクロの世界では、光子や電子は一つひとつがエネルギーをもち、互いに引力や反発力をもちながら一定量以上のエネルギーが加わると、突然非連続的な運動をする。個化社会としての世の中全体が、不安定な動きをしながら、万事ここに在らずという動揺した状態は、古典的なニュートン・モデルではなく量子力学の世界に近似する。

  投げられた野球のボールも理論的には波動性をもって振動するらしいのだが、量子力学レベルの微小の数値と比較すると、あまりにボールの質量が大きいので振動しているボールの波長は桁外れに小さくなり、ボールに波としての性質が見かけの上では現われないというのが説明である。

  「巨人の星」の星飛馬が投げるボールは、振動しながら打者に向ってきたと思うし、カムイ伝の主人公が敵とぶつかった瞬間、はずれた位置にフェイントする芸当(変位抜刀霞切りだったか)ができたわけは、マクロのレベルでのコミック的量子力学なのだ。

(2010.9.19記)