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イッセイエッセイ

581号 漢文文化圏(2)

2010年10月08日(金)

漢文に対して便利な記号を用いて訓読する方法(技術)は、奈良末期から、系統的というより便宜的、補助的に始まっていた(第一章 漢文を読む)。そして平安中期以降の院政期になると、この読み方が仏典のほか、儒学や文学の書籍にまで広がり、訓読の仕方も定型化した文体として確立するようになり、流派ごとに秘伝的に伝授されてくる(点図)。
  鎌倉・室町時代になると、禅僧が多数中国に留学し(その数は遣唐使と比べても圧倒的に多い)、この時代からは漢文の直読の傾向が現われ、漢文の助辞(而、也、之などの置字)を訓読で省略することをさける考え方が出てくる。
  背景には、インドが中心であった仏典の時代にあっては、天竺(インド)・晨旦(中国)・日本を対等視する国家観が日本に生まれたが、時代が経過して、禅僧がもたらした儒教(朱子学)的な中華思想の影響をうけだすと、漢文と日本語訓読の関係が対等でなくなってくるのである(66頁)。
  日本でも幕末よく使われた「尊王攘夷」は、もともとは中華の王を尊び、夷狄を排撃するという意味であり、明代の朱子学者、呂の『四書因問』にみえる言葉である(70頁)。
  桂庵玄樹(1427―1508年)、文之玄昌(1555―1620年)などが漢文訓点をさらに改良し、これらが後の江戸時代の四書訓読の基礎となる。
  さらに江戸期には、伊藤東涯(1670―1736年)や荻生徂徠(1666―1728年)などの訓読廃止論まで現われる。これは当時長崎での日中貿易を通じて広まった中国語の口語(唐話)ブームが背景にある(75頁)。
  西洋文明が導入された明治期に、漢文は無用になるはずであったのだが、そうはならずに西洋の制度・概念などが漢語で翻訳され、漢文訓読体が議論の文体として使われることになる。新聞、雑誌などを通して、かえって漢文の普及度が高まるのである(80頁)。
  維新期にはしばらく、英語学習法として漢文と類似の訓読風の授業さえ行われたりする。また、清王朝の梁啓超などの日本亡命によって、中国人が西洋を学ぶのに日本の翻訳を読む方が手っ取り早いとして、日本語を中国語に逆訓読する不思議な現象も生じた(83頁)。
  東アジア地域の漢文の訓読は、日本に特有の現象ではない。ひろく朝鮮半島、ウイグル人、契丹人(モンゴル系)、ベトナムなどでそれぞれの国の様々な漢文訓読の歴史がある。
  そして多くの時代において、中国そのものが遊牧民族に支配されたため、遊牧民族は中国文化に同化する一方で、中国語に対して彼らの文法の影響が生じた。突蕨(トルコ系)、蒙古人、女真(ツングース系)、満州はみなアルタイ語系であったため、古典漢文とは語順が逆の一種の訓読的な語法が入りこみ、これらの影響による現代の口語中国文が形成されることになる(第二章 東アジアの訓読 169頁ほか)

(「漢文と東アジア―訓読の文化圏」金文京著 岩波新書 2010.8月)

(2010.9.20記)