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イッセイエッセイ

1333号 雑想(27)

2018年08月16日(木)

○現場主義の本意
 現場主義とは、ただ現場に行くべしという意味ではない。現場をしっかり見て、人にものを聞いたり、考えを伝えたりすべしというのが本意である。
 形式的にその場に行くだけのことが重要なのではなく、それだけならむしろ誤りである。独り合点をして現場主義を実行していると勘違いするなら、心ここに在らずとなり返って無駄な行為である。後で常識的なことを誰かから尋ねられても、肝心な答えができぬことになりかねない。いわゆる仁和寺の法師状況になる。

(2018.5.21 記)

○記憶の性質
 一昨日のことであるが、次のようなことを車中で想って速記した。
 ―――記憶とはつまり想い出しの働きは、突然の精神作用ではなく反復的な作用である。自己というものが何から成り立っているのかと言えば、つきつめるとそれは記憶及びその反芻でしかない。たとえば誇りは、自己および自己の集団の自尊心を与えてくれる記憶のことである。つまり日々生活していることも、瞬間々々の行為ではなくその瞬間に至るまでの記憶の累積である――――
 過去のことをさまざま想い出しているとき、その想い出していること以外には、過去というものが自分に対して存在するわけではない。自分のこれまでというものは、汎ゆる記憶についての朧げな途切れとぎれの曲線の積分であり、回想といえばある時における記憶に対する微分のようなものだ。
 数学の微積分のことを最近考えることがあって、そのように思ったのかもしれない。 

(2018.5.25 記)

○市場化
 大学アメリカンフットボールの今回の反則事案は、スポーツ競技における競争ではなくそれをこえて市場化が起っていることに起因する。市場化というのがスポーツにおいてのみならず大学そのものの市場化となっている。これは更に国家間でも生じており、国家の市場化である。更にこれは経済的な市場化にとどまらず国際的な名誉に関する認識の市場化にもつながってゆく。

(2018.5.27 記)

○変る世の中
 俗に世の中が変ったと言うのだが、ではなぜ世の中というものは変るのであろうか。
 いったい何が変るから世の中が変るのだろうか。だんだん何んでもが、少しずつ変るから変るのであろうか。
 経験的な実感としては、世の中が変るのは世の中に栖んでいる人々が変るからであろう。更に人々が変るとは如何なる意味かといえば、一つには、社会の中で日々に古い人が去って新しい人が入ってくること、即ち人々が絶えず交替して行くことによるものである。附随してもう一つは、これら人々の心持ち(つまり精神が影響し合って、互いに変化を増幅するということによるものかと思うのである。
 したがって世の中で、これまでは考えられなかった奇妙なことが起ったり、訳のわからぬことが世の中で通用することになるのである。

(2018.6.21 記)