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イッセイエッセイ

1330号 史実の虚実

2018年07月05日(木)

 6月のSKYWARD(JAL機内誌)に‘志士たちの風景’として「西郷隆盛島にみたもの―奄美大島・沖永良部島」(文/磯田道史)が出ている。
 「奄美をみてしまったから、西郷隆盛は日本史を変えたと思う。奄美に来なければ、西郷は島津家の、ただの「忠犬」に終わっていたであろう。日本を変革することもなく、ああいう形での明治維新は起きなかったに違いない」。
 「西郷は何に気付いたのか。上でなく、下をみる政治の必要である。民のためにならぬ国なら、主君や天皇にさえ背く。奄美に来て、西郷は、そういう西郷になった」
というような調子の文章である。
 薩摩から島人たちは黒砂糖をつくれといわれ米づくりを止められ、サトウキビを納められなかったり外に流すと、厳罰という政治であった。西郷はこのひどさをみて、自分への仕送りの米を島人に与え、処罰されそうな島人を救うため四里の道を行き役人に掛け合って救命した。島人は西郷を神のように崇めた、
というようなことが奄美の海や愛加那と暮らした流謫宅などのグラビアとともに述べられている。
 このストーリーは先週放映の大河ドラマにほぼ同じである。ところが、日本経済新聞(2018.6.5)の「文化」欄に載った「西郷ら奄美流刑の実像~罪人と島民の知られざる暮らしをひもとく~」(郷土史研究家・箕輪優(みのわゆう))を読むとき、全く趣きの別なことが述べられている。
 西郷は島津斉彬の死後、三年にわたる幽閉生活を送り、さらに次の久光の命に背いて徳之島と沖永良部島に流された。
 さて奄美大島は1609年以降「薩摩藩の植民地として搾取の対象となっていたこと、加えて罪人を流す島々になっていた」、「流人の過半は武士階級で藩のお家騒動に敗れた政治犯だ。次いで多いのが、素行の悪い子弟が教育或いは折檻のために島流しになる例。犬神やキリシタンなど禁じられた宗教を信仰していたとして流された者も多い」とされる。
 「島の厳しい環境で自活を求められ」、「島民に読み書きを教えて口を糊した」教養のある武士もいたという。島の文化向上に寄与した代表者は名越(なごや)左源太であり、1849年のお由良騒動で失脚した高位の武士であり、清廉な人柄で島民の尊敬を集め、子供たちに学問を教え、島民たちと月見を楽しみ、島の暮らしをつぶさに記録した[南島雑話]という地誌を残したという。
 ところで西郷どんの方であるが、この郷土史研究家は本稿の“物語と異なる「英雄」”という小題のもと次のように述べる。 
 「実は名越と対照的なのが西郷だった。西郷は名越の10年後に奄美に流罪となるが、当時の書簡を読むと、物語で描かれているのとは異なる実像がうかがえる。島民をさげすみ、娘たちの手の甲のいれずみをばかにし『もっとまともな家に住ませろ』と訴えた。後年明治政府の重鎮となったときに『奄美の砂糖を困窮する鹿児島県士族の救済に使えばよい』と説いた。島民搾取の現実を目の当たりにしながらこういう考えだったのを知ると、私は西郷を英雄と単純にたたえる気持にはなれない」。奄美出身の元公務員の筆者が調べた流人の数は335人にのぼる。武士階級以外の者は存在の痕跡すら確認できないらしく、この人数は全体のごく一部ではないかという。また温暖な気候なので流人は総じて長生きであり、最も長い期間のものは65年間という虎蔵という人物がいたらしい。なお、薩摩藩の行政文書は維新直後の混乱期にことごとく焼却されたようであり、「どんな意図で奄美支配に関する文書が焼却されたのかは不明だが、南西諸島史の隠滅は惜しまれる」とし、筆者の研究の結果は[近世・奄美流人の研究](南方新社)にまとめたと言う。
 奄美大島での流刑者の行状については、島民の立場からは見方が違うであろうし、様々な人物の情報や評価が混乱錯綜するであろう。西郷本人の手紙であれば隠れた資料として発見されたというものではないのだろう。
 それにしても西郷像は美化されたものなのであろうか。

(2018.6.16 記)