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イッセイエッセイ

1329号 易と相手

2018年06月28日(木)

 易によって情勢を判断するのはばかげているとは言えても、それでは他によい方法で見極めをつけられるか、と反問されると困るであろう。これから起ることは、事態が難局であればあるほど不確実に見える。必勝を神仏に尋ねたり誓ったりするしかないのが実際である。それほどでもない話しは、常識と経験と多少の知恵で危っかしい橋を渡っていくことになる。
 (ここまで書いて十日ほど過ぎてしまい、その後に書くべき予定の本題のことが想起できなくなり、断片となった。そこで次に、無理やり何かを以下に付け足す)
 世の中のことで誰かが何かを為そうとするとき、それに応じて別の誰かがプラスマイナスいずれにせよ応じてくれないと物事は動かない。易はプレイヤーが最大六人の一種のゲーム論である(と言うと言い過ぎかもしれないが)。人事にわたることでシュミレーションを試みるとき、その人は結局のところ幼稚な易法の世界に漂っているということになる。
 (ここまで書いたが、本来次に書くべきことは相変らず想起出来ぬままとなる)

(2018.6月2日 記)

 最初の部分は先月鳥取で会議があったときに県境の岡山(美作)の立派な森林と大きな山林民家らしい屋敷(入母屋、輝く屋根瓦)を眺めたときに、何かに何かが応じるということを書こうと思ったのであるが、その前後に易のことを書いているうちに分らなくなってしまった。
 ひょっとして山林・林業というような長い年数の人間の事業を考えるとき、誰かが始めた事業をあとに応じて引き継いでくれる人たちの営みというものが必要だ、と思ったことのためかもしれない。

(2018.6月2日 記)