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イッセイエッセイ

1322号 知識と発動

2018年06月22日(金)

 世の中には、知識として再現できなくとも知っていればすむこと、つまり知っているというだけのレベルで十分こと足りることが沢山ある。この知っていることだけですむ事柄についての度が過ぎた形のものが、単なる物知り、トレビア、ディレッタント、講釈者である。知識の獲得には、実践ほどのエネルギーと知恵の投入がいらないので、過剰に傾く性質を内にもつから、そうならないようたえず注意がいる。
 精神と身体が分裂しやすい仕事になればなるほど、知るだけが過剰となるアンバランスが生まれるおそれが生じる。
 知識として知っていること(インプット)と、これを使えること(アウトプット)との量的比率は、少なく見積っても何倍にもなるであろう。
 これを学習(教育などが中心となる)の場に展開してみるなら、英語が話されている国では基本単語2,000語で話し言葉の90%ほどがカバーされているという統計がでている。書かれるものであれば2,000語で80%余りがカバーされる。この2,000語が4,000語と知識が2倍となっても、これによるカバー率は比例して上ることなく、単語習得の限界効用が低下することとなるわけである。
 このような基本語を重視するコーパス統計は我々に学習上の希望を与えてくれるのであるが、これは一つの励ましにすぎず、用心して受け止めなければならない点が有る。これは2,000語が客観的にそのような出現状況にあることを示すのみである。それが単語のテストで済むものではないから、聞いたり読んだりの受身レベルであっても2,000語でもって、聞き分けや読み分けが実際できるかといえばその保証はない。さらに能動レベルの話したり書いたりする段になると、実際に使えなければならない訳であり、知っているだけでは駄目なのである。2,000語のアウトプットが実際できるのであれば、それに伴ってすでに何千語ものインプットが自然に修得されていることを意味し、2,000語だけでは不可能なのである。

(2018.5月 記)