西川一誠後援会サイト

イッセイエッセイ詳細

イッセイエッセイ

1317号 個人による教育指導

2018年05月14日(月)

 先週日曜日の毎日新聞(2018.4.15)の「今週の本棚」に、県立大学でも教えられた伊東光晴先生(京大名誉教授)が、『なぜオックスフォードが世界一の大学なのか』コリン・ジョイス著(三賢社)という本の書評を書いておられる。この紹介されている本はオックスフォードで学んだ人のオ大学についての体験的な評論だということである
 オックスフォード大学というのは38のカレッジから構成され、学生は大学ではなくカレッジを受験して入学し、そこで生活しながら学ぶ。教育方法の核心は文系の場合であれば、カレッジ教官による個人指導(チューター制)であるという。毎週、学生は指定された参考文献を読んだ上で、与えられたテーマについて小論文を書きこれを教師のもとで読み上げ、質問の受け答えをして互いの議論と学生への指導がなされる。そして次週のテーマと参考文献がまた与えられる。このような方法により一流の研究者による一対一の指導が行なわれ、これはイギリスの大学の双璧とされるケンブリッジ大学においても同様である。学生に対してはこれらの個人指導に加え、カレッジをこえた一般の講義も行なわれるということだ。
 伊東先生の解説によると、世界的にみてアメリカの制度は指定されたテキストブックにもとづく多人数講義方式であり、ドイツの制度はゼミナール形式を特徴としており、イギリスの個人指導(1対1人あるいは1対2人)における指導方法の独特さを述べている。
 中産階級がオックスフォードに入るようになったのは歴史的にみて1920年代頃からであり、50年ほど前までは男性中心の大学であったが、現在は男女比は53対47だという。かつて大学には国会議員の定数枠があったことが知られており、1603年から1950年まで(労働党政権で廃止)オ大学には二名の下院議員の枠があったことを、伊東先生は本書ではじめて知ったと述べる。
 ケインズの伝記(エッセイ385号、830号)を読むと、彼の場合はケンブリッジ大学の話しになるが、国会議員として大学枠から出馬しようか迷った、というような話が書かれていたように思うので、両大学に議員定数が特別あったことになる。
 この書評の副題は「学生時代の人間関係が生きる」ということである。一種のクラブ的なこの種のイギリスの伝統大学の社会的人間関係が、ソフトなパワーを発揮しているということであろう。
 話を戻してオックスフォードやケンブリッジのチューター制であるが、これはかつて日本にあった教育システムとも異なるように見える。江戸期の水平型の会読(かいどく)制とも大衆型の講釈(こうしゃく)(エッセイ1310号参照)とも趣きを別にしているのであろう。このイギリス型の古典的な制度の確保には、日本のように多くの学生が大学に入学できるようなマス教育では実行不向きであり、イギリスの中でもおそらく特異な歴史的特権をもつ大学に限って可能な制度なのであろう。
 かつて慶応大の政治学の先生から伺った話しであるが、先生がオックスフォードに留学されたとき、晩餐は大学の古い食堂でとるべきとされているのだが、食事中の会話は18世紀以前をテーマにしたものに限るという習慣になっていて、対応に困られたということである。こうした旧習が大学内にあちこち存続していることが大学の伝統であり強さでもあるのだろうが、一般の学生には入り難く馴染みにくいことであろう。
 このオックス・ブリッヂの論文指導法のことは、以前にもエッセイのどこかで書いたような記憶があるが、ナンバーがすぐ見つからない。
 それはともかく、最近のテストや大学入試などでは、一種のはやりであろうか小論文を課すことが好まれる傾向になっている。これまでの○×式の受身型でなく、単純処理の解答を求める弊害への反動ではあろうが、行きすぎの感なきにしもあらず。高校内での大学入試の指導では、生徒も先生も論文の添削にかなりの時間をとられてしまうという意見も聞くのである。同じ前述の論文指導とはいっても、中味の吟味が必要であり、入試の「小論文」といっても果して論文と言えるようなものなのか、また何を論じた文章レベルの話なのか。大学側の期待もふくめて、意味の通るだけの作文の指導に終らないよう注意すべき状況であろう。
 入試の小論文問題はともかく、大学に入ったからといって大学において論文指導のような高等教育(文系)が行なわれているとは思われないからである。せめて高校でも「小論文」のような発想だけでも取り入れて授業を面白く展開できればよいのだが。歴史を例にしても、人物と事件と現場の実況解説のようなことに終始して、およそ事柄の道理や因果、人情などに考えをめぐらす深みに欠けるとしたら、論文以前の問題となり受験勉強にもならず学習にもならない。理系の数学や理科だって計算問題をこえて論文的なレベルの教育はずいぶんと可能性があるはずなのに、そうした動きは感じられない。

(2018.4.30 記)