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イッセイエッセイ

1310号 会読(かいどく)講釈(こうしゃく)

2018年04月22日(日)

 マックス・ウェーバーは、資本主義がなぜヨーロッパにおいて成立しえたのかについて、営利の追求を敵視したはずのピューリタニズムの経済倫理が、実は大きな貢献をしたのだという歴史的逆説を究明した。
 歴史的条件に関して同じような論理立てによって、三谷太一郎著「日本の近代とは何であったか」(岩波新書2017年)は、なぜ江戸の幕藩体制のアンシャン・レジームから明治国家の立憲主義が誕生できたのかについて論じている。
 まず江戸幕府の政治システムの中に権力相互の抑制均衡が働くメカニズムが備わっていたこと(合議制、月番制など)、次に権力の分散つまり身分・地位といった名目的権力と実質的な権威が制度的に分離されていたこと(将軍と朝廷、諸侯と老中など)、第三に政治的公共性の前提となる文芸的公共性をもったコミュニケーション・ネットワークの成立が当時の社会に広くみられたこと、以上のような諸条件を挙げている。
 とくに第三の条件、つまり身分や属性を超えた成員間の平等性の強い知的共同体による横のコミュニケーションの存在を、森鴎外の史伝の登場してくる人々を例にして、三谷太一郎教授は多くの普通の知識人の各界各層の営みがあったことの重要性を強調している。およそ無から有は生じないのは確かであって、由利公正が時代に魁けて明らかにした万機公論の思想、盛んなる経倫の思想なども、わが福井藩の文化的環境の基盤から初めて生まれえたものであると推測してよいであろう。
 さて昨日(2018.4.11)の読売新聞の文化面(14面)に、「江戸後期の武士討論の心得」―国立公文書館で資料展示―という記事が載っていた。同紙文化部の辻本芳孝氏の記すところからも、上記のような日本の近代化や民主主義の誕生と継続がなぜ可能であったかの理由がよくわかる。
 こで記事から何箇所かを参考に抜き出す。
 「武士たちが幕末の激動を乗り切れたのは、“討論の心得”のおかげ―? 江戸後期以降、幕府や各藩の教育機関で、大学のゼミのように参加者同士で討論する「会読(かいどく)」を重視していたとわかる資料が、国立公文書館の特別展「江戸幕府、最後の闘い」で展示されている。身分や立場を超えて討論をする場ができた結果、人の交流が促され、倒幕や近代国家建国の動きにも影響を与えたとして最近注目されている。」
 「会読には別の効果もあった。武士同士さえも厳しい身分差がある時代だったが、会読の場は対等で、時には政治的なことも討論できた。その結果、自由に意見を言う土壌が育まれ、幕府や藩といった立場や身分を超えた交流が増えたとみられる」。
 ここに説明されている会読とは、素読(そどく)や先生が授業をする講釈(こうしゃく)と並ぶ学習法だそうで、今では言葉も習慣もすたれてしまったが、書物の一節などについて互いに問題点を出し意見をぶつけ合って研究をする方法のことである。例として米沢藩の学政聞書―「毎月六度 会読」、幕臣らが通った湯島聖堂―「会読の際は十分に筋道を立てて述べるように」といったことが記された文書類が残されているようであり、そのほか藩校、私塾、公家らが学ぶ学習院の資料展示も今回展示されているようだ。
 特別展にかかわっている公文書館専門官の長坂良宏氏が、18世紀後半の解剖学書「解体新書」を例に挙げて、「杉田玄白らがあまりオランダ語を話せなかったのに翻訳できたのも、会読の手法を用いて一語一語、翻訳を進めたから。当時、外国の情報を速やかに受け入れられたのも、参加者同士で研究する会読の素養があったからでは」と指摘しているインタビューも記事の中に掲げられている。
 以上のようなことを合せて考えると、鴎外が史伝において比較的マイナーな人物群を多数登場させて気にしなかったのは、彼らの偉大さに着目したのではないことは確かだが、従来の好意的な解釈では鴎外自身が人物達を調べていく様子が物語性を帯びている新形式であるという点にあった。しかし、今回の説明は、鴎外が彼らの地味で真摯な学問姿勢とネットワークの実際を伝えようとしたのだ、という新解釈につながる。

(2018.4.11 記)

 さてさらに別の話をつけ加える。武生(越前市)の出身である後に初代帝大総長となる渡邊洪基は若かりし頃、幕府の医学所に一介の教師として奉職していた。しかし幕府医学所の教授方針に改革が行なわれ、緒方洪庵のあとを引きついだ松本良順は、これまで盛んだった講読や会読の風習を禁止することとした。
 「江戸時代の学問システムにおける一大パラダイムの転換といってよい。江戸時代の知の伝達は今日風に言えば、読書会を通じて行われた。(中略)書の読解を通じて、人々の寄り集まり、自由な議論を誘発する。それがこの時代の思想学問を成り立たせていた作法だった」。
 すなわち松本良順は、会読方式を真向から否定し、知の源泉は書でなく、師に求められるという転換を図ったわけである。教師の講義する体系的な知識の学習に、学問の眼目が置かれることになった。
 「討論ではなく、講義こそが学問を伝達する回路としてフォーカスされたのである」。
 そして医よりも政治を好んだ渡邊洪基としてはやや場違いな空間ができたこととなるのだが、これが彼のその後の活躍にマイナスとなったわけではないと評価している。(以上は、瀧井一博著「渡邊洪基(わたなべひろもと)」―衆智を集むるを第一とす―(ミネルヴァ日本評伝選 2016年)17~18頁から)
 ここで知るべきことは、江戸期は会読という方法が盛んであり、互いに討論することにより知識を確かめ、その結果として議論の幅も依然と儒学や医学のみならず政治の分野にも拡大していったということになる。
 新しい講義方式への変革は、われわれが現代馴んでいる講義による方式であると考えられ、それが主流となったのである。しかし最近では逆に、教師による教壇からの一方的な教授法は生徒の思考力や自立性を阻害するものとして、小・中学校や高校でも対話型・討論型の導入が必要という主張がなされ再び実践されようとしている。
 こうした教育の流れをステレオタイプ的に把握をするなら、明治以降、西洋知識をとり入れて近代化を進めるための講義的に伝授する仕方が続いてきたが、戦後に至ってつめ込み教育、そしてゆとり教育という歴史を経て、再び教育方針のゆり戻しが生じ、アクティブ学習として対話、討論型が復活してきたと見ることもできよう。
 しかしこの方法もパターン化されてしまうと弊害が生まれるものであり、生徒同士が瞬間的に相談し合ったり、先生と生徒が選択肢を模索するような授業であったとしても、江戸期の「会読」ほどの効果は結局は挙げられないのかもしれないのである。百五十年前に捨てられた会読の精神を、教師の間で現代型にアレンジして研究し合ったり、先生から生徒に向けての「講釈」の面白さに技術の磨きをかけることは何よりも大切なことではないだろうか。

(2018.4.13 追記)