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1309号 「青い鳥」と夢の中

2018年04月12日(木)

 メーテルリンクの「青い鳥」(1907年)の童話のこと。
 この冬は大雪があり、しかし3月も終わろうとする今、桜は雪を見なかったように美しく咲き始め、ずんずんと身の回りも春という別世界に変ってゆき、奇妙な気持になる。そして急に、目でみた幸せ、といった言葉が心に浮かびこの時「青い鳥」のことが脈略もなしに連想のように言葉として出てきた。
 「青い鳥」の物語は、幸せはさがし求められるものなのか、幸せというものはどこに有るのか、の根本的な問いかけに対する文学からの答えであり、否定的肯定形の結末を示してくれている。大人の心にどの程度の感動を及ぼすかは分からぬが、子供にとってはなお山のあなたの遠く、きっと見知らぬ良いことがあると夢見るであろうから、外の世界への冒険の旅を呼びさましてくれる物語となるであろう。そんなことを思い描きながらこのところ色々な出来事が次々とまるで夢の中のように起こったなと想い返す。

 この週末の金曜、ラジオ番組(「英会話タイムトライアル」・29年度最終回)に、1970年代のヒットソング井上陽水「夢の中へ」の英語ヴァージョンが流れた。“さがしものは何ですか”がWon’t you tell me what you are looking for? というように聞こえる出だしで、女性歌手(イギリス出身のジャネット・ケイか)がカヴァーしている曲である。
 見つけにくいもの、探したけど見つからないもの、探すことを止めてみると見つかるかもしれないもの、といった歌詞である。探しものとはきっと幸せに係るもののはずである。この歌の流れは、夢の中へ行ってみたいと思いませんか、探すことをよして踊りませんか、と夢の中へと踊りを誘うストーリーになる。現実の中でのしあわせ探しをあきらめ、別のものへと誘っているのである。これは70年代の若者の精神であろう。その1年前のこと、1972年からフジTVで放映された新しいスタイルの股旅時代劇「木枯らし純次郎」は、テーマ曲「だれかが風の中で」(上条恒彦・唄)の中で、主人公は全くの虚無の世界にいるようなのだが、しかし“どこかで誰かがきっと待っていてくれる”と期待を捨てていないのである。
 この基本的な調子は、後の1978年「いい日旅立ち」(山口百恵・唄)が“どこかに私を待ってる人がいる”、と歌うときの心象と同じなのである。
 さて、メーテルリンクの「青い鳥」の話しにしても、それは夢の中での物語である。人のみる夢の深層構造には、何かをいつも探しているといった迷路に迷い込むようなカフカ的世界が、実際に組み込まれている。夢の中で探すものは具体的のようでアヤフヤであり、しかも限りなく変化しやすく、対象は幸せのような真っ当なもののことはない。
 早や三月春、雪から桜に舞台が変るのは格別めずらしいことでも何んでもないのだが、今年はどうも夢から現実に戻るに似ている。しかし、不幸な気分では決してない。
 どうか目的の場所をはっきり言っておくれ、お前が案内すると言ったのだから。その場所の目印を知っているのだろう、さっき言った場所はでたらめではないのだろうから。今そこから戻って来たばかりと言わなかったかい。他の仲間たちがいつのまにか見えなくなったではないか、遅れたのか、彼らを探しにお前は道を戻ってくれないか。いや待て、お前はここにほんとうに帰ってくる積りか。それにしても急にどうしてこうも道ゆく人が多いのだ、先程とはまるで様子のちがう人たちだ。お前は行き先の場所をなぜ忘れてしまったのか、道の向こうにいる老いた女たちがいるよ、道を尋ねておくれ。なに、物を買ってくれと言うばかりなのか。そんなことはどうでもよい、憶えていたことを想い出してくれ、場所の名前を言っておくれ。お前はいないはずなのに、どうしてここにいるのだ。なに、その町の駅の名前を想い出したと、それはよかった、早く言ってくれ。“きなえの駅”だと、奇妙な名前の駅だ。これまで聞いたこともない名前だ、地図の上にあるような駅の名ではないぞ。われわれは夢の中にいる気分だ、早く抜け出さなければならない。このままではどこまでも遠くに連れてゆかれてしまう。

(2018.3.31(土) 記)