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イッセイエッセイ

1298号 科学と哲学

2018年03月18日(日)

 哲学はこれを人間がただ追究しても袋小路に入る。なぜなら哲学は一定の社会条件を前提に観念を展開することであるから、絶対的に無前提の哲学を唱えたとしても、空虚で無益となる。無限に深淵を究めようとしても、それは孫悟空の如く大仏の掌の中に思考が勝手に往来するのみで、おのずと限界があり自己憧着に至ることになるからである。
 二千年以上も昔にソクラテスが自然の哲学から人間に対する哲学に転換せざるをえなくなったのは、ギリシア時代としてのこうした限界と背景があるのだと思われる。またソクラテスが新しいと目された哲学問答においても、行き着く先は結局のところ大体同様の結末となって、最後に自己の無知を知り、再びまたその先へと循環してゆくことになった。善き人間たらんことを求め、問答に登場する人たちは、例えばそれが身体の利益に役立つ医者であったり、馬のためになる馬丁、海の船乗りを支配する船長、ヒツジや牛の利益をはかる羊飼いといったポリスに馴じみの職業人であった。そして政治とは何かへと議論が進んでいった。
 そこには絶えず、あるものに利益を及ぼす「技術」の力を発揮することが善であるという、暗黙の前提が入りこんでいる。いずれにしてもこのソクラテス哲学の水準にあっても、それはあくまでポリス世界内の論理であって、プラトンが描くソクラテスの対話篇や国家論の論議の果ては、その時代の科学技術の範囲を遠く出ることはない。
 このような古典古代の哲学問答に現われる「技術」、さらには中世から近代に至るまでの人間の知識の進歩を考えるならば、科学技術の発展こそ哲学の考え方そのものの構造を変革する原動力となったと考えざるをえない。
 現代ではさらに、この科学技術においても必ずしも万能ではなく、いわゆるトランス・サイエンス問題群(たとえば原子力発電の事故発生確率予測など)と称されるような分野のように人間の知力に限界も立ちはだかるのである。しかしそれでも、科学技術は突破口を見つけだし、人間の知能と地球上の資源の限りを尽くして絶えず新しい挑戦をしてゆく。
 哲学が全ての学を超え学問の学問として、さらにその先の究極の思考と主張し、その使命にそって学的にふるまうことは学の性質としてありうる。しかしカント哲学がニュートン科学とは併立しえても、ダーウィンやアインシュタインの理論までは包摂していないように、時代の科学技術をはるかに超えた次元で哲学することはできない望みである。

(2018.1.28 記)