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イッセイエッセイ

1296号 英語の仮定法

2018年03月18日(日)

 英語の文法においては誰でも知っているように、仮定法は時制がひとつずつ遡って、未来の事は現在形で、現在の事は過去形で、過去の仮定は過去分詞の構文で表現する。大略このように学校の授業では習ったわけだ。またwouldやcouldを使った疑問文によって、willやcanの現在形を用いた場合よりも更に丁寧な依頼文を作ることができることも教わっている。
 では、なぜ英語ではこのような形式の文法存在するのだろうか。この点に踏み込むとき若干立ち入った心理的な観察を必要とするだろう。なぜなら過去形はあくまで過去形であって、決して表現上は現在形ではない。過去形を用いて現在の仮定を表していると観念すれば、どう内心において過去形が機能しているのかの文法的な分析がいるのである。

(仮定法について)
 そもそも仮定法において或る現在のことを仮定する場合、たとえば、
 If I were not sick, I would make a trip round the world.
 (もし病気でなかったら、私は世界一周旅行をするのに)
と言うとき、しかし話者は現実には病気なのである。ここで現在に反して「私が病気でないという現在」の仮定ないし可能性をどこかに求めるとしたら、それは今よりも過去の方向でしかない。あるいは自分が現在から未来の側へと心理的に遊離ないし移行しなければならないだろう。どちらも現在を離れるのであって同じことである。過去で何かの条件がもし現実と変わっていたとしたら、「私が病気でない現在」が生まれたかもという可能性があり、その結果、旅行に行けるかもしれない。今の瞬間に病気である自分の立場でこう考えるとき、仮定法現在形のままで「もし病気でないなら」と言えることがは言えるが、心理的には平板すぎる。現在と反対の状況(病気でないこと)の仮定現実を心理的に客観視して表現しようとするとき、時制がひとつ相対的に遡って「病気でなかったら」と表現する方が落ち着きがよいことになる。このように日本語でも(傍点のところ)同様の現象が文法的に起こっている。これはチョムスキーの主張する人間共通の普遍文法の存立理由につながる。
 同じように、例えば現実に起こりそうもない未来のことをいうとき、その可能性(仮定)は未来にとっての過去すなわち現在に求めることになるため、時制が仮定される時点よりも一つさかのぼる表現となる。このようなことから仮定法は心理的過去形ともいえるのである。
 この間の事情をさらにより微妙に言うならば、むしろ遡ると言うより今の現状(病気である)を置き去りにして、ありえない未来(旅行をすること)へとより心を先に先に行かせているのである。結局、あっさりした説明をするならば、仮定法ifの従属文は、主文よりも時間が前にあり、時間上の距離があるのである。では、主文中の助動詞(willやcan)までもが原形ではなく過去形になるのはなぜか。これを時制の一致という文法論で片づけるのか。willやshallも置き去りにして心は更に先に行ってしまっているのであろうか。willやshallを我々はふつう未来を示す助動詞といっているが、正しくは時間差ないし順序が一つ先のことを示すだけの品詞かもしれないのである。
 英語教育において仮定法は、教科書でも参考書でも最後のところで学習する文法事項になっている。高校生になってから出てくる仮定法までもある。このことは発達心理学から由来する理由なのか。しかしこの種のものは外国の書籍では児童文学にも平気で出てくる文法であり、難しいか難しくないかといった議論ではないのである。文法として段階的に習うと難しいのであるが、しゃべるために聴いたとすると使い方は限定的であり、単なる言い回しの表現にすぎないのかもしれない。

(2018.1.23 記)