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イッセイエッセイ

1312号 旅人としての時間

2018年04月24日(火)

 何かを眺めて或ることをふと思いつく。それは名案でもなく、勿論ちょっとした洞察といったものではさらにない。此処でその思いついたことを書こうと前書きを始めたのだが、こうして別の何かを書いているうちに、当のそのことを忘れてしまいそうな些細なことなのだ。
 いま列車は北陸トンネルを出て外界の光りが車内に戻り、周囲の山々をあらためて眺め季節の美しさに気を奪われる。花芽が吹き出して山腹がふっくらと盛り上がり始めている。前方に若狭さとうみハイウェーの衣掛大橋が白く斜めに優雅にかかる。新緑を直近にした季節の風景は一年中で最も美しい眺めであり、木々の緑に変化してゆく様子も、雪の降るこの地方に特有な色彩と肌合いなのだろうと思う。
 車中の新聞を眺める。今日は熊本地震から2年ということであり、復興は着実に進んでいると報ず。日本の人口が7年連続で減少という記事もあり、福井は減少の少ない方からグループ分けすると上位3分の1ほどのところにいることがわかる。
 しばらく時間が経過し、また外に目をやれば、琵琶湖の湖面の一番北の端が山の陰に眺められる。
 話しを最初に戻さなければならない。
 福井駅での発車まで時間がまだ10分ほど余裕があったので待合室に座っていた。名古屋行きの特急が先に入ってきた。土曜日の朝なのだがよく混んでいる。女性が窓からこちらを見る。こちらも向こうを眺める。待合室のガラスと列車の窓の二つを通して、人の姿を眺めるとずいぶんと距離が遠く感じる。ほんの数十秒のしかも行きずりの出来事だから、いよいよ眺め合っても遠いままで何の交渉も生じない。この言い方は漱石の小説の出だしのようなところがあるか。
 新聞にまた目をやると、人間があいかわらず相手を愛してみたり害したりして、その結果の顛末がたくさん出ている。今程のような行きずりの出来事もあればそうでないようなものもある。
 パスカルが「随想」の中で奇妙なことを述べている。人が或る町にやって来て、自分の評判を気にするようになるまでに一体どれくらいの日数を必要とするだろうか、という問いである。人の命、地上における限られた歳月、名こそ惜しけれetc、この種の時間の経過と人間の自己意識に関わる問題を圧縮型にして表現したのであろう。パスカルはまた神の存在をも確率的に証明しようとした。聖書が人間を子にたとえるのは、限りない誇張というものであろうし、皆無的な存在を父に対する子にたとえてくれるのは人間にとって過ぎたる扱いであろう。
 同じサンダーバードの列車で同じルートを戻る。帰りの琵琶湖は波が荒い、朝もそうだったのだろうが反対側で見ていない。何も浮ぶものは無く、湖東の山々はぼやけている。此岸の比叡山も低く雲がかかっている。ちょうど昼すぎのためか農作業前の田畑や住宅の集合、車の動きなど遠くにはあるのだが、人の姿というものがない不思議な風景である。動く車の中に本当に人が乗っているのかも怪しい気分になる。しばらく眺め続けても車窓の向こうには全く人の姿が現れぬ。三十分ほどそんなことを思いながら窓外を眺めているうちに、ようやく自転車の女子中学生二人、またしばらくして菜園に仕事をする婦人、路上の二人若者の後ろ姿、こうした人間の姿をとぎれとぎれに眺めることになった。それにしても人がまばらでヨーロッパの田舎を車で走った時のような気分だ。
 やがて菜の花畑が広がり、太陽光パネルが谷間をおおう。田には白鷺が降りている。そうするうちにもう県境のトンネルだ。
 書こうとしたのは人間のつかの間の時間についてであった。

(2018.4.14 記)

 あとでパンセを調べると、次のように書いてあった。

 われわれが通りすぎる町々。人はそこで尊敬されることなど気にかけない。しかし、そこにしばらく滞在するとなると、気にかける。それにはどのくらいの時が必要なのだろう。われわれのむなしい、取るに足りない存続期間に釣り合ったひととき。(第2章 神なき人間の惨めさ 149)

 それにしても何故パスカルはこのようなメモを残したのであろうか。人間のしるしとしての虚無、虚栄、高慢、気晴しなどについて。

(2018.4.23 追記)