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イッセイエッセイ

1314号 新しいと古いの意味

2018年04月26日(木)

 春の夕べもほぼ暮れゆきて、幾日か前の細い線のような月も今宵は三ケ月らしくなって西の空にやや高くかかり、低く西空には著しく光り輝く明星が眼をひく。今日はこの春の再度目の暑い日でありしかも日中は28℃にもなったらしく、四月の気温としては異常である。あの強い光は金星なのであろうが、しかし近い星だから光年で測るような昔の光ではないことになる。
 今夜はさほどの月夜ではないが暖かく、平安の昔であれば光源氏のような雅人であれば惟光を先だてて忍び出たのではないかと物語を想像する。
 ここからは古いと新しい、昔と今のことの違いについて書く。光源氏よりも現代のわれわれ田舎源氏の方が新しいタイプの人類だと観念するのは勝手である。しかし、光源氏はずっと昔の人であろうから古い人間であり、われわれの父祖のまた父祖の・・・・その又ずっとその先に遡った遠い昔の古臭い人達だと考えたなら、それは早計であり偏見というものである。
 なぜなら昔に生まれて今は亡き人たちのことを、今の年寄りの更に昔の年寄りのずっと何百年も前の年寄りだと観念することが単純な誤解というものだからである。ちなみに平安時代に光源氏の幼少の肖像画が残っていて現代の田舎源氏を見比べたとしたら、はたしてどっちが古ぼけていて年寄りがかっているか分ろうというものである。
 これに加えて時代ごとに人間がだんだん進歩してきていると観念することも誤解を強めるもととなる。牛車の代りに無人運転自動車が路上を走り、夜空を蛍ではなくドローンが飛ぶとしても、大昔のことを古くさく野蛮であると断定してよいかは一概に言えぬのである。
 むしろ個人や世代を捨象して、人類史を生物学的に遺伝子の変異と引き継ぎの歴史だとマクロに観念するのならば、昔の人間であるほど野性的で若々しく、現代人よりははるかに溌剌かつ元気であったはずであり、むしろわれわれの方が年数を経て古くさくなり細胞も疲れ切っていると考えるのが正当であろうからである。
 春の野良仕事を終えて家路へと向かう折、ふと西空を見上げ、月と星がいかにも美しく輝き、その奇しき光からさまざまな田舎源氏のつまらぬ連想が迷い出て、以上のような記述となった。

(2018.4.23 記)