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1259号 テイラー著「第二次大戦の起源」(1)

2017年07月31日(月)

 本書は、第二次大戦の前史を扱っているものだ。著者のA.J.P.テイラーは、1939年以降の戦争はヒットラーによって「計画的にひきおこされた」という当時既にイデオロギー化しテーゼとなった理論体系――ニュールンベルグ裁判も同様――に対し「真っ向から挑戦しセンセーションをまき起こした書である」といわれている(解説による)。
 本書の叙述ぶりは、生彩にみちており、第二次大戦の歴史書によく見られるような観念的な議論は展開しない。したがって、理論よりも記述の仕方が面白いために、要所々々を選んで抜萃するのは適当でなく困難でもあるので、読み乍らその場で気に懸ったところを順次断片的になるのをいとわずに書きぬき、後の記憶に役立てようとするものである。なお(頁数)は便宜的に随所に入れ、小生による付加は< >にし、またコメントは小文字にして段落のあとに追加した。

<「再版への序言」──批判にこたえて>
 <執筆の理由は>歴史的探究心を満足させるため事際に生起した事柄を、またその理由を理解するため/歴史を裁こうとは思わない/道義心について<述べるときは>、対象とする時代の道徳感情をとりあげて何か記録すべきものを見つけたら、たといイギリス政府に有利な事実であっても記録するだろう(またしても冗談だが)/伝説は長く生き延びている、伝説の破壊はヒットラーの是認を意味しない/「修正主義レビジョニズム」に寄与するものではない/主権国家の世界では、それぞれの国家は自己の利益のためになしうる最善のことをなすのであって、犯罪のためではなく、せいぜい過誤のために批判されるだけである/何故に戦勝両国はドイツに抵抗しなかったのか?<…>何故に英仏は最後に抵抗したのか?/

 ヒットラーは綿密な首尾一貫した計画に従ったというよりも、事件を利用したのである/ヒットラーは権力につく方法については何の構想ももたず、ただそれを確信していたにすぎない/<ドイツの当時の>景気回復は殆んど自律的なものであり、ヒットラーが権力を獲得する以前にすでにはじまっていた世界経済の一般的な上昇にもとづくもとであった/ヒットラー自身は二つの寄与をした。一つは反ユダヤ主義である。<…>心底からこれを信じていた。<…>いま一つの寄与は、道路や建築への公共投資の促進である/事実ヒットラーは、準備された計画など全く実施しなかった。手当たり次第したのである/ナチは国会議事堂の炎上全く関係がなかった。<…>ヒットラーその他は不意を打たれた。彼らは心底から共産主義者が火をつけたと信じこんだ。<…>勿論、共産主義者もまた国会議事堂の炎上には何ら関係がなかった<注 オランダの一青年による事件>/人人はヒットラーを邪悪な人物とみなし、他にたいしては用いないような証拠によってこれを証明しようとする/何故にこのような二重の基準を用いるのか?まずヒットラーを邪悪な人物と仮定するからである/大国たらんとすることの目的は大戦争を戦いぬくことであるが、大国でありつづける唯一の道は大戦争をしないこと、でも一定の範囲で戦うことである。ここにイギリスの偉大さの秘密がある――イギリスは海戦に専念し、ヨーロッパ大陸諸国を範とする軍事力を持とうとはしなかったからである(12頁)/

 ヒットラーは奸計に依存したのである。戦争を欲するどころか、彼は最後の手段として全面戦争を考えたにすぎない。彼は総力戦をしないで全面的勝利の成果を得ようとしたのであって(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)()()()()()()()()()おかげでもう少しでそれを得るところであった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。/他の諸国は総力戦か降伏かの二者選択を迫られたと思った。はじめは降伏を選んだが、次いで総力戦を選び、ヒットラーを最終的に破滅させたのである。(12頁)<傍点小生、以下同じ>/

 大戦前には、人々はヒットラーの行動に注目する代わりに、その発言に耳をかたむけた。大戦後は、証拠にお構いなく、起ったすべてのことの罪を彼におしつけようとした/民間人の無差別爆撃がイギリスの戦略指導者たちによってはじめられたのに、ヒットラーがこれをはじめたとする殆んど一般的見解によっても示される(12頁)/

 「バターよりも大砲を(・・・・・・・・・)と宣言した(・・・・・)だが実際には彼は大砲よりもバターを優先させたのである(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)/ヒットラーは市民の生活水準を引き下げることによって人気を弱めまいとした/ナチ体制は能率的でなく、腐敗し、混乱していた/ヒットラーは増税しようとは思わなかったが、にもかかわらずインフレーションにはおびえていた/「彼は少しずつ―― 一連の小戦争によって――ドイツの()()()問題を解決しようと計画したのである<バートン・クラインの説>」。これは、私もまた政治記録の研究から到達した結論でもある(13頁)/

 彼が計画しなかったたった一つのことは、しばしば彼に帰せられる大戦争であった/大戦争を(・・・・)()()()()()()ふりをして実際にはそうしなかったところに(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)ヒットラーの政治戦略の本質がある(・・・・・・・・・・・・・・・・)(14頁)/

 チャーチルのように彼に対する警鐘を鳴らしたものは(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)計らずも彼のために働いたという(・・・・・・・・・・・・・・・)()()()()()この策略は斬新で(・・・・・・・・)
誰もが騙された(・・・・・・・)/指導的政治家が軍備を隠す代わりに誇張するということがどうして考えられようか?だがこれこそヒットラーのしたことなのだ。<注 ボールドヴィン首相は信用を失った>(14頁)/1940年<…>ベルギーとオランダに侵入したとき、フランスの打倒を考えてもいなかった。これは防衛行動、つまりルール地方を連合国軍の侵入から守るための措置であった。つづくフランスの征服は予期せざるボーナスであった(15頁)/

 ドイツの諸都市にたいする空襲に憤慨してはじめて、ヒットラーとドイツ人は戦争を本気で考えるようになったのである。ドイツの戦時生産が頂点に達したのは連合国軍の爆撃がはじまった1944年7月のことである/終始一貫(・・・・)軍事力ではなく政治的術策こそがヒットラー成功の秘密であった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)彼は自ら(・・・・)()()()()()()()ように(・・・)軍事力が決定的となったときに破滅したのである(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)(16頁)/あらゆる民主煽動家デマゴーグと同じく、ヒットラーも大衆に訴えた。左翼の政策を実行するために権力を求める民主煽動家(デマゴーグ)とは異なって、ヒットラーは大衆を右翼に引渡すために左翼の方法で大衆を支配したのである。右翼が彼を仲間に入れた理由はここにある(19頁)/

 西欧列強よりもソ連を打倒する方が容易であると思っていた。ボルシェヴィズムは戦争がなくても崩壊すると彼は確信していた。ただ、この確信は西欧の多くの政治家にもみられたところである。つまり彼は、何ら努力せずに獲物を集めることができるというわけである/抽象的理論家ヒットラーは結局、あらかじめ自己の目的や方法を考えない未完成の政治家であったということになる/彼は欲した限りのものを得た。というのも、誰も彼をどうしたらよいか分らなかったからである/歴史家が「宥和論者」を愚か者とか臆病者として一蹴するとすれば仕事としてはあまりよくない。<…>後の経験は彼らが正しかったことを示している(20頁)/

 われわれは、まだドイツ問題をまわりにまわっている。例えば、ヒットラーが合憲的方法で権力につき、みたところドイツ国民の大多数に支持されていた1933年に、他の諸国がヒットラーを打倒するため武力で干渉するなどと、分別のある人間に考えられようか?/また「宥和論者」は、ドイツの敗北の結果、ロシアがヨーロッパの大部分を支配するようになるのを恐れていた。後の経験は彼らがこの点でも正しかったことを示している。ソ連がドイツに取って代ることを望む者だけが「宥和論者」を非難できるのであって、彼らを非難する者の殆んどが、同時に「宥和論者」の失敗の必然的な結果を見て憤慨しているのは理解に苦しむところである/「宥和論者」は少数グループで、当時多くの人々が反対したというのも事実でない。<…>イギリスのあらゆる新聞はミュンヘン協定を称賛した。だが伝説はあまりにも強く、この文章を書いている現在ですら信じがたいほどである。/勿論、「宥和論者」はまず第一に自分の国のことを考えた――大抵の政治家もそうするし、そうすることで普通ほめられるのだが。だが彼らは他の国のことも考えた。彼らは東欧の諸国民が戦争のさい十分に役立つかどうか疑っていた。/1939年9月のイギリスの立場は疑いなく英雄的であったが、主に他の国を犠牲としての英雄的行為であった。イギリス国民は六年間の戦争を通じて比較的に被害は少なかった。<…>大戦中10万人を下らないチェコ人が死亡した。600万人のポーランド人が殺害された。裏切られたチェコと擁護されたポーランドと一体どちらが良かったのか?(21頁)/

 歴史家のたった一つの義務は、生起した事実とその理由を発見することである。われわれが、生起したあらゆる原因をヒットラーに還元しつづける限り、何も発見できないのであろう。彼は強力でダイナミックな要素を提供したが、これこそが現在の社会を動かしているのである。/彼はある意味ではヴェルサイユ条約の落し子であり、<…>だが何といっても彼はドイツ史の、また現代ドイツの落し子であった。彼にドイツ国民の支持と協力がなかったらとるに足らぬものであったろう。近頃では、ヒットラーは何でも自分でした、汽車を動かし、ガス室の充填すら独りでした、と信じられているようである。勿論そんなことはない。ヒットラーはドイツ国民の共鳴板であった(22頁)/

 彼は文明史上比をみない邪悪な命令を出し、これをドイツは遂行したが、彼の外交政策は別の問題である。/彼はドイツをヨーロッパの――恐らくずっと先のことだが世界の――支配的強国にしようとした。他の強国も同様な目的を追求したし、いまも追及している。他の強国も小国を衛星国として扱っているし、死活の利益を武力で擁護しようとしている。国際問題では、ヒットラーがドイツ人であったことを別にすれば、彼に悪いところは何もなかったのである(22頁 「再版への助言」―批判にこたえて、の結び)

<第1章 「忘れられた問題」>
 現代史とは厳密にいえば、事件がまだ新しいうちに即座に判断し、読者の即時の同意を仮定して記録するものである。チャーチル卿の偉大な著作を前にしてはこれを見くびるものはいないであろう。だが今や歴史家が一歩退き、かつては同時代だった事件を後世に再検討できる時期となった(25頁)

  大戦勃発20年余、終結以来15年以上たった時期の著者の心境が述べてある。

 <第一次大戦に関し>圧倒的に歴史家の関心をそそった大問題は(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)いかにして戦争がはじまったか(・・・・・・・・・・・・・・)()()()()()であった(・・・・)。/第二次大戦は殆んど正反対であった(・・・・・・・・・・・・・・・・)読者にも研究者にも関心をそそる(・・・・・・・・・・・・・・・)()()()()()()()()自体であった(・・・・・・)(27頁)/あらゆる論点を氷解するかに見える1つの説明があった。それはヒットラーである。彼が第二次大戦を計画した。それをひきおこしたのは彼の意志だけである、というものである。いうまでもなくこの説明はチャーチルからネイミアにいたる「抗戦派」を満足させた。(30頁)/

<以下は太平洋戦争に関しての記述であるので抜すいする>
 <極東における戦争の原因>日本に関しても論争の余地はあまりない。すでにこの論争は決着をみている。かつてアメリカには、日本と協力すべきか、それとも中国と協力すべきかという現実問題が問われていた。この問題は主としてアメリカの政策の混乱のために、今日現実そのものによって答えられている。日本が極東でのアメリカの唯一の信頼できる友人であることは一般に認められているし、したがって、対日戦争は誰かの(・・・・・・・・)――恐らくはもちろん日本側での(・・・・・・・・・・・・・)――誤りによると思われている(・・・・・・・・・・・・)(31頁)

 日本人の現代史家が、この文章を書くとこうしたドライな感じの文体にはならないだろう。

 資料が多すぎると同時に少なすぎる/厖大で立派にみえるけれども、歴史家が使用するには危険な資料である/だが、法律家ですら、今日ではニュールンベルクでの証拠については疑念を抱いているにちがいない。文書は被告人の戦争犯罪を証明するためだけでなく、原告である諸大国の戦争犯罪を隠すためにも選択された/もっと公正な学問的方法で集められた証拠を求めようとすれば、第一次大戦の起源を研究した先学たちよりも、われわれの状況がはなはだしく悪いのに気づく(32頁)/
 歴史家は自ら十分満足できる証拠をもったためしはない(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)/かえりみると、過誤を犯したものは多いけれども、潔白なものはいない/政治の目的は平和と繁栄をもたらすためにあるが、この点では理由は何であれ、あらゆる政治家は失敗したのである。これは英雄なき歴史であり、もしかしたら悪漢すらいない歴史かも知れない(35頁)/

 かつては同時代的であった事件を、いまや公正に(・・・)再検討できる時期となったことを言っている。第一次大戦に対する歴史家の態度は、
()()()()()戦争が始まったか(・・・・・・・・)ということであって戦争自体への関心はみられず(・・・・・・・・・・・・・)、戦争目的の展開や和平交渉、社会史的な研究もほとんどなく、公式の軍事史の編さんも遅れたと言う。一方、第二次大戦に対する歴史家の関心は、
殆んど正反対(・・・・・・)であると言う。つまり第一次大戦の後は<注 当時はまだ第一次という語はない>、最後となる戦争を研究しても教訓とはならないと考え、そして問題はドイツの地位をどうするかであったから、戦争原因(ヴェルサイユ条約適応緩和の是非)の研究が実際的に重要であった、と言う。

<第2章 「第1次大戦の遺産」>
 第二次大戦の大部分は第一次大戦の繰り返しであった(明確な相違もあるにはあったが)/空間的でなく時間的に、1941年12月にはじまった極東での戦争と重なり合った。極東での戦争は(・・・・・・・)()()()()()()()()()()大いに狼狽させたが(・・・・・・・・・)この二つの戦争は別箇のものであった(・・・・・・・・・・・・・・・・・)。ドイツと日本とは決して協力しなかった。(36頁)/第二次大戦では、第一次大戦のときとほぼ同じヨーロッパの連合各国が、ほぼ同じ敵の諸国と戦った。・・・戦争そのものは全く同様にドイツの敗北で終った/<戦争の目的は何だったのか?>第一次大戦については「ヨーロッパ改造の方法を決定するため」と答えられるが、第二次大戦については「この改造されたヨーロッパが存続すべきかどうかを決定するため」と答えるだけである。第一次大戦が第二次大戦の理由を説明するし、一つの事件がほかの事件の原因になるという意味では、第二次大戦をひきおこしたといえる/ドイツが第一次大戦で勝利を収めたとしたら(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)実際には第二次(・・・・・・・)()()()()()
なかったろう(・・・・・・)。連合国はまだ何とか余裕を保っていた。ドイツは緒戦の勝利の成果を放棄すべきであると要求しさえすればよかったからである/だが連合国はこれ以上にだんだんと、アメリカの援助ないし激励の下に、一連の理想主義的な戦争目的を定式化した。勿論これは連合国が戦争をはじめたときの目的を示すものではなかったし、今や連合国そのために戦っている目的――ないし目的の大部分――をも示してはいなかった。/むしろ、かかる規模でまたかかる犠牲を払って戦われた(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)()()()()()な気高い結果をともなうべきであるとの信念から生じたのだ(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)理想は(・・・)後の事態に影響しなくも(・・・・・・・・・・・)()()()()()副産物であり(・・・・・・)基本的な争いをごまかすものであった(・・・・・・・・・・・・・・・・・)本質的には勝利が依然として(・・・・・・・・・・・・・)()()()()()()()()(38頁)/

 第一次大戦はヨーロッパ全土に独立の民族国家をつくりだしたが(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)何とも奇妙なことは(・・・・・・・・・)()()()()()()()()()()()の擁護者であった多くの理想主義者が(・・・・・・・・・・・・・・・・・)今やこの事態を嘆いた(・・・・・・・・・・)のである/民族国家は反動的な、軍国主義的な、経済的に遅れた国家とみなされた。ドイツがこれらの国がひきつけるのが早ければ早いほど、関係国家のすべてによいというわけである<ドイツが戦争によってではなく経済力や政治威信で大国となり、小国を支配することは危険でなく歓迎という発想が生まれた>/この見解はつとに、事情に詳しいケンブリッジ大学の経済学者J.M.ケインズによって提示されたし<…>(44頁)/平和条約の強制は<…>脅迫のたびに効果は失われ、圧力も減少した/連合国、ないし若干の国はドイツの息の根を止めるぞと威し、ドイツは死ぬぞと威した。双方とも脅迫を最後まで行う勇気はなかった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)ますます恫喝は価値を失い(・・・・・・・・・・・・)()()()()()()
、/連合国が現実に欲したのは、直接にドイツを対象とした条約体制で、しかもこれをドイツが自発的に受けいれることであった。このようなことができると考えたのは奇妙なことだが、これは抽象的観念が国際関係において強く作用していた歴史の一時期であったため(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)である/<旧い君主国は条約の義務など気にもしなかった>新しい態度は(・・・・・・)ブルジョワ文明の基本的要素をなす(・・・・・・・・・・・・・・・・)契約の神聖不可侵(・・・・・・・・)()()()していた(・・・・)/ここに第一次大戦後の時期と、以前の同様な性質をもつ時期とのきわだった対照がある(49頁)/

 アメリカは自分自身の強さによってまどわされた(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)アメリカは敗北後のドイツは自分たちには(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)()()()()()()との正しい前提から出発したが(・・・・・・・・・・・・・・)ここからさらに(・・・・・・・)ドイツはヨーロッパ諸国には危険(・・・・・・・・・・・・・・・)()()()()()()誤った前提にいたった(・・・・・・・・・・)のである(52頁)/

 イギリス人の気持は<…>孤立主義の方へ揺れもどった。<…>かつての連合国には怒りっぽくなり、かつての敵には親切になった。<…>ドイツに対するフランスの要求を支持しようとはしなかった。ドイツの危険という話題を歴史的ロマン主義――確かに当面は存在したが――とみなしがちであった。フランスが安全保障という観念にとりつかれていたことを、誇張しているというよりむしろ誤っているとみていた(54頁)/
 <クレマンソーをのぞくフランスの多くの指導者たちは>二大アングロサクソン国の節操を信頼せず、勝利に酔ったものは、ルイ十四世の下であるいはビスマルク時代以前ですら享受したヨーロッパの支配的位置の回復を夢みた。さらに穏健なものも、東欧の同盟国が人的資源におけるドイツの優位を除き、フランスのかつての大国としての地位を回復させるであろう、としたのである(55頁)/

 <大戦後に東欧にできた新興諸国について、フランスは>負債ではなく資産とみなした。義務を負わせるものでなく、フランス<人口4,000万人>を保護するものとみなした。<…>ロシアと異って決してドイツ<6,500万人>とは密接な関係を結ばなかった。<…>フランスを範とする民主的な民族国家であってこそ平時には安定し、戦時には確固とするであろう。<…>これらはチェコ<1,200万人>とポーランド<6,500万人>の力の驚くべき過大評価であった(58頁)/
 フランスがポーランドないしチェコを援助するために攻勢に出ることができるのは、イギリスの支持があるときだけであるが、イギリスは、フランスが遠くに離れた東欧諸国のためでなく、自らを守るための防衛的行動をとるときにのみ、支持を与えるつもりであった/

 同盟国の一方が他国の防衛を支援するとしても、国際関係においては、いかなる時期にそれを実行するかということを、十分わきまえておくことが絶対的に必要であることを示す。

 フランスは大戦がドイツの侵略によってひきおこされたと信じたが(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)イギリスは大戦は誤って(・・・・・・・・・・・)()()()()()のだとますます考えるようになった(・・・・・・・・・・・・・・・・)両者はこうした相違を議論して結論を出そうとしなかった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。<…>互いに事態が相手の誤りを明らかにするのを待っていたし、時がたてばしかるべく満足させられたが、どこか空しさが残った。実際にはイギリスの解釈が勝利した(・・・・・・・・・・・・・・・・)(59頁)/

(2017.7.11 記 2017.7.15 追記)