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イッセイエッセイ

1245号 雑想(23)

2017年07月05日(水)

(寺社や仏閣と幸福度)
 「子供の頃に寺院や神社が近所にある地域で育った人たちは、そうでない人に比べて幸せをより感じている」、という大阪大学チーム(行動経済学・大竹文雄教授ら)の調査結果が出たようだ(アンケートをもとに操作変数を用いた統計学による方法)。これを2017年5月14日の産経新聞(2面)が報じている。寺院や地蔵さん、神社の祭礼などの地域活動がソーシャル・キャピタルとして機能しているということのようだ。
 統計学上の具体的手法の中味はよく分からないが、寺社の有無を「操作変数」として扱っている。寺院・地蔵があるような地域に育った人たちはそうでない人たちに比べてこの変数が0.110ポイント、また神社では0.036ポイント高く、これを幸福度として年収に換算すると(いかにも経済学的である)、前者が169万円、後者が55万円高くなることが分かったという。神社の方が幸福度が低く出るのは祭りなどの地域活動による影響力が大きく出るため(?)ということらしい。

(2017.6.25 書き残した後)

(およめさん捜し)
 今日の新聞漫画「ひなちゃんの日常」(29.6.23)には、米山さん(漫画に時々登場する脇役、未婚の男性)のお母さんからひなちゃんが頼まれて、いろんな人(?)に対し「だれかおよめさんになってくれませんかね?」と声をかける何コマかのマンガ。米山さんに気持のある(?)近所の美しい○○嬢にもそう言う。「なぜそれを私に──ドキドキ」、ひなちゃんの答えは、彼のお母さんから「いろんなところでいってね」と言われたからだと。そして○○嬢の見ているところで、近所の太った猫に向っても「だれかいませんか?」と聞くので、○○嬢は「あー」と複雑なため息。

(2017.6.25
記)

(空中飛行)
 NIKKEI「プラス1」(2017.6.24(土))の「何んでもランキング」の「空中散歩 大人も楽しむ」のNo.1に「ツリーピクニック・アドベンチャーいけだ」──全長1キロのジップラインが福井県として初めて一位となる。この池田のものよりスケールは小さいが、かなり類似のものがあちこち、とはいっても大体大都市に比較的近いところのものが多い、にあることが分かった。祝意。

(2017.6.25
記)

(無くしたものは大切なもの)
 いつも身近にあってほとんど気にも止めないような些細な物でも、それが突然なくなれば、大事なものを失ったような気になる。例えばかばんに付けていたつまらないストラップでも、紐が切れ、どこかに落としたようなときは、持ち主にとっては気になる。
 これが単なる物であってもそうなのだから、まして生き物であったり、さらに人間であるならば、無くした感は一層強いであろう。もっとも人の場合は従順ではなく反撥がありうるので、一方的に喪失感を抱くとは限らないこともあろう。
 人間が自己にふかく関係しているような物に対する感覚や愛着は、こうした性質を帯びているから、対象がどのようなものであっても、古いながらに尊重がいるのである。人は同時に感情として新しいものへの好みを持っているが、新しいもののみに一方的に関心を向けたのでは、物事の半面しか見ていないことになる(朦朧体)。

(2017.6.25 記)

(原理の原理)
 外界に起こる事柄の原理、もちろん人間自身についてもふくめて、これらが一体どういう仕組みと運動によって成り立っているか。この起源をたどること(起源というのは探求しても永遠に謎として残る)は関心のあるところである。
 二項対立、進歩か循環か、競争と共生、一元か多様性かetc さまざまな思考の大枠というものが、専門の書物にもジャーナリズムにも日常の思考にも、知らず知らずの中に吾々は心に内在化させている。近代科学の思考の発達も、物理、化学、生物という分野を想定すると(この想定も一つのパラダイムであろう)、三者が併行して動いたり、ある一者が先行して他の分野を説明したり誘導したりして、またそれぞれの時代が対応するように思える。
 現代では、物理学、化学と進んで来て、いまや生物学的な思考が人間の心に受け入れやすくなり、この種の説明が多くみられる。しかし総体の世界の発展を数十億年の物差しで眺望するとき、物理、化学、生物の順で進展してきていると見てよいから、逆に生物的思考も、究明してゆくならば一元の物理や化学原理の現象として顕現しているということになるであろう。そうしたときに、融合と対立、統一と多元、秩序と混沌などの前後や優劣関係、相互運動が一体どうなのかが問題となる。今日の天気のように転変きわまりない(内面雑然体)。

(2017.7.1朝
くもったり、強く降ったり、そして晴れて)

(後始末)
 仕事は一応終って、最後の後始末をし終って終わったことになる。仕事はつづくのであり、次のすぐの仕事の妨げにならないように後始末がいるのである。ささやかな家庭菜園の仕事でも、道具を元のところに戻し、履物も元のあるところに置き、違うところに放らない。

(2017.7.1
記)

(対話をしようと思うとき)
 政治の場で発話しているとき、教育の場で教諭するとき、日常的な茶話をなすときであれ、それが単なる談話をこえて、対話の相手に少しでも良い影響を与えようと考える場合には、自分がその話している内容や話し方に十分注意を向ける必要があることはもちろん、自分がそういうことを心に抱いて話をしているのだ、ということを自分に言い聞かせて、客観的に外から対話を眺めている土台となるもう一人の自分を自覚することが重要である(冗漫体にあえて記した)。
 仕事柄、さまざまな人達と話しをする機会があるが、時折役に立つことを教えてくれているような気持ちを抱かせてくれる人に会うことがある。そういう心構えをこちら側はさっぱり用意していないにもかかわらず、相手に対して後で気持ちの良い感じが残るのは、そういう場合ではないかと思う。
 以上のことについて、最もわかりやすい例をあげるならば、教室での授業のことである。一時間弱のそれぞれの教科において、教えることに先ず集中しなければならいだろう。だからといって、そのとき教師の側に今この授業を何故このようにして行っているのかという自問があって、即座にこれに応えられる用意を抱いていることは大事であろう。これは一種の客観化である。生徒側にはふつう不可能な心構えであり、教師にしか要求できない性質のものである。教師がそうすれば生徒にもまた心構えさせることができる。そうすれば個別ばらばらな授業を全体の中で位置づけ、重要度(要するにこの勉強はこれだけのことだ、というようなこと)の全体構造を生徒の理解に及ぼしていくことができる(飛躍体)。

(2017.7.1
記)