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1242号 決闘と復讐・敵討(柴田錬三郎選集第18巻<随筆・エッセイから>)

2017年06月26日(月)

 世界の情報が刻々その日のうちに知らされ、生々しく明らかになる時代である。本邦においても、インターネットやスマートフォンにラインナップされる毎日の事件は、物騒な話題ばかりである。伝わってくる望ましい世界のニュースは数少なく、あちこちからテロの頻発する報道だけが突出し、しばしば暗殺めいた記事も紙面に出る。武力で脅迫や示威する動きは、いよいよ度重なってきている。
 しかしこうした憂世をはなれて、一対一で行われる折り目正しき決闘などといった話は、時代劇や西部劇あるいはフィクションでは見聞できても、ノンフィクションの世界では寡聞にして知ることがない。
 現代において、正義の名を負う決闘に類した思考や言説は、ただスポーツや政治の世界などで、決戦、打倒などの過激な用語によるゲーム化された形で展開されるに過ぎない。
 数日前の新聞(6月19日読売新聞・社会面)に、戦前の人達の心をとらえた沓掛時次郎などの時代物作家である長谷川伸の敵討小説の未発表原稿が390篇あまり自宅で発見されたと報じられ、長谷川伸に師事した平岩弓枝さん夫妻が保存しているという記事が出ていた。我々の知っている彼の時代小説から想像して、逝きし世の由緒正しき義理人情の物語が書かれているのではないかと期待をするのである。
 ここ数日、かの眠狂四郎の柴田錬三郎(1917年-78年)の選集(集英社1990年)の、それも最終第18巻というものを一冊ざっと読んだ。
 そこに所収されているものに、「犬養への決闘状」と題する随筆(政治評論というべきか)が載っていた。いつどこで発表されたものなのか編者の十分な確認が明記してないが、前後の収録作品から見て、昭和30年頃の随筆かと思われた。読み返したところ、文中にこの決闘事件に関係した三宅雪嶺の挑戦的な文章の引用があり「─1957年のどこかの右翼雑誌に掲載したら恰度ちょうど時期を得ているように思われるので、大意を伝えると―」と書いてあるから、昭和32年の作と推定が成り立つ。この頃は終戦が一昔となり、同年は石橋湛山の後をうけた岸内閣が成立した年でもある。
 この小篇のあらすじを要約する。明治21年9月に犬養毅に宛て、雑誌「日本人」の編集者・松岡好一という人物が、犬養に対して決闘状をつきつける、「呈上仕り候」となった。長崎の高島炭坑の坑夫の労働情態が悲惨極まるという同誌記者の報告記事に対し、朝野新聞の記者であった犬養毅の方が、これを調べ直して事実無根に近いという反論のルポタージュを書いたことが、事の発端である。
 柴錬の説明によれば、当時、朝野をあげて欧化を目指していた日本において、「欧化が激しければ激しい程、また反動的に国粋派が頭をもたげてくるのは明治も今日も変りはない。(中略)いわば、この決闘状事件は、国粋派と文明派の対立であった」ということらしい。そして、ジャーナリズムが事件の騒ぎを大きくして、両者の決闘をなんとかしてやらせようとした魂胆があったという。そういう明治半ばの、今では考えられないような決闘熱が日本中に高まった様子や、炭坑の実態報告の引用、その他関連した面白いエピソードが資料とともに語られている。柴錬は物知りで考証家なのである。そして騒動は、明治22年12月、山県内閣が禁錮刑の「決闘罪」を布告導入して結着するのだが、しかしそれでも、なお決闘状のやりとりは後をたたず、翌年には渋沢栄一・大倉喜八郎らに向かって決闘を申し込んだ右翼男が、この刑法の適用第一号で処断されたと書いている。
 「しかし、申込大流行にも拘わらず、真剣勝負が、一番ひとつがいもなかったのは、いったいどうしたわけであろう。所詮、日本の風土には、決闘というダンディズムのスポーツはむかなかったのであろうか。そのかわり、暗殺が得意の証拠は、決闘流行の端を開いた犬養毅があの時も『話せばわかる』と拒否したが、きき入れなかったのをみてもわかるであろう。」と柴錬。
 その部分の犬養の答書―「折角の御申込に候得共、御求めに応じ難く候。尤も拙者の記事中、御不同意の廉も候はば、御遠慮なく明らに事実を挙げて論駁下さる可く、即ち此辺は拙者本より希望する所に有之候」―とある。その文体も気風もなお江戸の時代劇をうかがわせるが、心は既に明治の開化気分になっているので、実力行使の段は、叶わぬ期待ということになったのである。
 シバレンは円月殺法(読んだことはなく、雷蔵の映画でしか見たことはない)の流儀で、次のように、日本人の言行不一致を難じて文を締め括る。柴錬の主人公は決闘づくめの日々であったろうから、政治談議として結末は以下のような調子となる。
 「この不名誉をそそぐために、今日でもおそくはない。さしずめ、国会議事堂あたりで、誰かが誰かに申し込んで、華々しく切りむすんでは如何なものであろう。明治二十一年代と今では、状勢も多少似かよっている。また決闘の流行を見るかもしれぬ。そして、こんどは、あっちこっち真剣勝負が開始され――そういう連中は死んでも別に惜しくはない。代議士諸公、一はジャーナリズムを狂喜させる為、一は再軍備促進の為、一番やってくれ」
などと挑発し、気分はまだ戦前が消えずに続いていたわけである。
 なお本巻では、シバレン自身が二十歳代に蒙った理不尽な兵隊体験を読むことができる。
 「軍隊内務班」(作品年不明)として書かれた実話(昭和17年頃)、また台湾のバシー海峡での彼の沈没漂流(昭和20年)と奇跡的な生還記「わが生涯の中の空白」(「中央公論」昭和50年)が載っており、迫真した内容であり読むに値する。だから戦後の安易な海軍小説などには冷淡で義憤を感じているのである。
 本巻中にはもう一つ類篇の「復讐について」(「夕刊フジ」昭和48年)、という二頁にも足らない随筆が入っている。
 君父の仇は不倶戴天の敵という言葉は中国から来た。しかし中国の歴史また小説や戯曲でも、中国人の復讐心は日本ほど熾烈ではないようにうかがえる。歴史的に日本ほど仇討ちの多かった国はないのだが、戦後はどうしてその種精神の火のごとく燃える心を失ってしまったのか、どうもよく分らぬと慨嘆する。
 明治中頃に仇討(決闘)は法律で禁止されたが(上述のとおり)、一般の人々はなお復讐精神を尊重した事実がある。実例として、ある刑事が逮捕した賊によって護送中に刺し殺された事件が起った、県庁の給士をしていた十三歳の一人息子に県知事や警察署長までが、賊を何日に護送するから、飛び出して父親の仇を討てと励ましている逸話を伝えている。しかしそれが出来ず、いまや武士の意気地は地を払ったと有志者たちが批判する談話が新聞に出たという。しかし大正4年の例では、父を殺して出獄したごろつきを待って、十六歳の少年が仇を討った話もあると書く。
 ここまで書いて気づいたが、決闘と復讐あるいは敵討などという思考・行動は、互いに重なることもあるが、共通でないところもある。前者は正邪・優劣を決するに運と決断に任せる作法であるのに対し、後者は一種の報復行為的な側面がつよい。
 また少し前に読んだ森鴎外の翻訳の短篇「女の決闘 Ein Frauenzweikampf」(オイレンベルク作)のことを想い出した。
 男の妻が交際相手の女学生に対し、拳銃を用いた果し合いを申し込み、決闘を行う顛末が小説になっている。女二人だけの孤独な荒野の決斗である。女の心の動き、風の中に木々がなびき、女二人はわけもなく相手を狙って射撃していかざるをえない時間の経過を、静かな遠景の中に淡々と印象的に描いていく。その進行と悲惨な結末が独特の臨場感を読者に与える(鴎外の筆力によるところあり)。時代的には日本でいえば同じく明治末頃に起ったことと思われる(小説からは、まるで実際あったような話に感じる)。

(2017.6.17 記)