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1241号 玉葱を干す

2017年06月18日(日)

 今週は二度に分けて玉葱を抜いて収穫した。
 最初の玉葱の干場はいつもの軒下でよかったのだが、今年は例年より沢山の種を知らずしらずのうちに蒔いたのか、大小の玉葱が沢山出来てしまった。嬉しいことなのだが干す場所に不足が生じた。
 この季節に車で郊外を走ると、農家の納屋や車庫の内側に玉葱が釣るされている姿をチラリと眺められる。もう吾が菜園も茎が倒れ出したのだから、獲り入れねばと知らせてくれるのである。
 こう書くうちに農作業の方に筆が進む。
 玉葱を土から抜く作業は、根が浅いため、また一本の葉茎に一個の玉という単純な形であるため、薯類に比べると格段に簡単なのである。だがそう思って仕事に掛かると意外とかがめた腰に不都合が来る。掘ったあと陽にすこしの時間当て、そして家に運び、根を切り、大小の玉を区分し束ねて…
 と筆が遊んでしまうことになるのだが、元に戻って、玉葱の干し場所のことを書く。
 にわかの極小農であるから、万事がルーティン・ワークの快調さとはいかないのである。まず昨夕は中程度の竹の小枝を適具にこと欠いて金槌を用いて払い落し、20本ほどの棒状の中棹をつくった。これも一仕事でありその日は終った。
 その夜の床の中で明日はどうしたらよいか、干す場所のことやら、干す竹の造作をどうしたらよいのか、の組立てと力学を思案して眠ってしまった。今朝は家の軒下をあちこちグルリと調べたが、陽当りと冬の風雪、風向きや軒の深さ、日々の取り易さなど、実際となるとなかなか良い次の場所が見当たらないのである・・・・
 そこで知ったことだが、何か目的をもって家の囲りを観察すると、その目から見て家の造りの様子や長短がはじめてよく把握できるという事実である。人は目的を持った動物であり、その目的をもって物を理解する。それ以外の観察と把握はできないということである。
 二時間ほどかけて、細竹による干し棚ができたのだが、すこぶる大げさでできすぎの形である。
 ここまで書いて来たとき、窓外には松の木の枝先のてっぺんにモズらしい鳥が止まった。間もなく突然に椋鳥の30-40羽の群れが庭に降りきた。砂のある所で羽を広げ口を開け、脚で激しく羽根を振って、どうやら虫干しの掃除らしい。さかんに芝をくちばしで堀り下げもする。この鳥はも少し羽根の色が鮮やかにできていると愛されるのであろうが、人間の眼の目的のために今の姿になった訳ではないので地味そのものである。また鳥の仲間の間では互いに姿形も吾々が見るものとは別に見えるのだろう。また今頃は一面の青田とその中に立つ白鷺のみずみずしい風景を目にする。水の生き物にとっては恐ろしい風景であり、鷺の鋭い眼には青苗は写らないも同然であろう。人間から見た俳句の景色でしかないのである。
   玉葱を吊さむ鳥々のよく来る日(この日)
   鉄橋の工事せかせる行々子(何日か前)

(2017.6.11(日)好天、暑日 記)