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イッセイエッセイ

1238号 変える、変わる

2017年06月18日(日)

 気分のおもむく儘に、様々なことについて物事を変えてみたり、あるいは、変ったという結果を出したいために、物事を変華しようとしたりする人たちが世の中に多い。現実にも物事は少しずつ変わって行き、暫くしてふり返ると曽てとは仕組みも随分変ってしまい、人々の気分や受け止めも変ってしまったことに気づくことが多い。これらはすべて人々が自然なままに行動し、あるいは物事を変えようとして変ってゆく結果の仕上がりの姿なのである。
 家庭では、日用的なものたとえば小道具、図書館カードや名刺入、マスク、本の置き場所など、今までよりは新しい場所の方が便利だと思って変えたりすると、大体禄なことが起こらない。頭は以前のままの場所にとらわれ、新しい場所は新しいので何処だか忘れてしまい、果ては家の中でも捜しまわる始末である。もっと限定した自分の衣服のポケットの中でも、たえず場所が不定なので、手帳、名刺入、予定表、ハンカチその他の在り所が定まらぬのである。こうしたものはともかく変らない方が宜しい訳であって、これまで通り固定しておいた方が無難なはずだがその通り実行できない。
 しかし、さらにより広く職場や団体、地域や国家へと範囲が広がってゆくと、そう静かなことばかり言ってはおられない。自分たちだけそうした了見でゆったり構えていても、とにかく競争関係が働く。活動的なものの力によって、絶えずあちこち変えられたりし、その動きに応接が生じ、これがまた切磋琢磨と言われるものにまき込まれて、そこに速度と多忙が生まれる。これらの習慣的な動きに棹を差すユックリのスロー運動でさえも、一つの新たな活動となってスローがスピードでしかないという変態現象も出てくる。
 こうした世の中のせわしげな運動に抗しようとすれば、古来の隠遁生活か予言者ということになるのだが、そういう訳にもゆかず普通の世渡りとしては、せめて心掛けだけでも世の中を少しでも良くするという精神で、反省を加えながら世の流れを決意して止めたり緩めたりする他に道がないことになる。
 ここで最近読んだ本をもとに中国の昔の話に遊んでみたい。
 中国の11世紀後半、宋の神宗しんそう皇帝の時代は建国してから百年が経過し、大改革の時代であったといわれる。天下太平とはいえ、宋の政治がその頃には成り行き任せにしているのみであった。資金は足らず、兵は弱く、貧富の懸隔が生じ、国勢が振るわないのを皇帝は慎概し、王安石とともに国勢振興、社会政策を進めた。
 具体的には(1)農田水利(土地改良)、(2)青苗せいびょう(苗銭貸付、穀価調節)、(3)均輸、(4)保甲、(5)免役めんえき、(6)市易、(7)保馬、(8)方田、(9)免行銭めんこうせんなど、これまでの消極無策から積極政策に転換した。これは世にいう王安石の新法である。現代の眼からみると、インセンティブを加味した経済戦略のようだ。以降、宋の国では新旧両派の内争が生じ、新法によるほとんどの政策は最終的に失敗に終る。
 この王安石が進めた方案について、日本の東洋史の祖、内藤湖南(1886~1934年)は『中国近世史』において、以下のように当時の時勢と戦略の関係を歴史的に評価する。
 「その趣意においてはいずれも良法である。人民が非常に努力的人民で進んで政府の政策を利用、自己の収入を増やさんとする積極的の考えがあれば、自然それから収益を受け、したがって政府の収入も増し、確かに良い政策である。ただそのためには、その実行に当たって、官吏に私なく、人民に努力心のあることが必要である。しかるに積年の習慣で官吏は廉潔でなく、人民も進取的でない。かかる官吏・人民の素賃を考えずに、進歩した方法を用いたが、後来の議論となったゆえんである。それでも傍がやかましくなく、みながこれに賛成し、初めは人民が苦しくともそのために働くようになるまで実行すれば実効が上がったに相違ない。成績がすぐに現れないと、攻撃したのでますます悪い。当時故老の大官はみな反対であった。韓琦は第一に反対した。司馬光は王安石と同年輩であったが、これも反対である。それらの反対論の共通点は、この新政策では天子と人民が利益を争うのは怪しからぬ。この政策には天子の収入、政府の儲けがある。人民の利益をはかるというが、政府の収入を殖やすことである。これは王道ではない、というのである。しかし、反対派の人たちは王安石の案を悪いというが、自らには積極的ないかなる案もない。・・・」(同書、岩波文庫152頁)(傍線、小生)
 新法は良法だったのだが、世間がすべてに亘って弛緩してしまっており、旧来からの精神を脱することができぬままにいたため、新法も悪法化し、かつ代案なく反対だけは盛んに論じられたので、一層混乱したと歴史的な評価するのである。
 「守旧」という言葉が著書の中にみられるがなつかしい言葉である。これは日本における十年余前の市場主義、構造改革の路線の時代のことであり、そして守旧派の運命をふり返るとき、所と時代が変わって、展開図の結果が改革と守旧間で陰陽と裏表の関係にあり複雑な気持ちになる。しかし新法が国家のために他意これなく本意に立って挑戦したことは評価されるべきだろう。
 内藤湖南は、中国の唐末・五代の時期を中世から近世への過渡期とみなすという、当時としては新しい学説を唱えただけでなく、次の宋・元代が明・清につづく近世中国の特質を形成することになったという見解をとっている。

(2017.5.28 記)