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イッセイエッセイ

1233号 注文の多い算数店

2017年06月18日(日)

 昨日は、県の新しい教育研究所が旧春江工業高校の校舎をリニューアルして完成した。教育博物館も充実しており、これからの活用と学校との連携活動が楽しみである。
 昔の子供たちが使った古い机や椅子、教科書などの教室風景がノスタルジーを感じさせる。庭の桜の散りかけの様子や中庭の樹木を眺めながら、自分は五、六十年前の昔に戻ったような気がした。
 新学期がまた始まったが、学校に通う児童や生徒は、毎日教えられることや為すことがいつも初めてのことばかりである。しかも一回ぽっきりで後戻りすることなく、次々と先に進まされるのである。この点が、教えられる側の子供の立場と先生とは全く条件が違うのである。先生は全体を既に見通しており毎年繰り返しているのとは全く異なるのである。子供たちはいわば毎日が一年生、明日というものが見えないのであり、さらに言えば明日という意味は分かっても、明日の具体が分からないのである。先生も子供のころは同じだったはずであるが、この大事な事実をすっかり忘れて、毎日が初心の子供たちの心理に心が届かないのである。特に数学(算数)や英語などは日常的な事柄を対象とした勉学内容ではないので、とくにその感が大となる。
 こうした点を振り返るとき、子供のころの学校での各人の躓き体験が参考になる。
 昔は小学三年(今は二年か)になると掛け算というものを習った。加減算に比べると倍算は、子供の頭にとっては一つの思考の飛躍である。この掛け算というものを早く憶えられなくて困った記憶があるのである。2の段から9の段まで棒グラフが各人どこまで進んだか教室に掲示したのだが、自分のものはグラフが伸びなかった記憶がある。そのほか算数では、まさお君やよし子さん達が登場して、長さや時間のさまざまな問題となって教科書に出て来る。要するに躓きの石があちこちに並んでいたのである。
 小学生(低学年)にとっては、覚えるということ、又どの様にして覚えるのかという点が全くの初心なのである。学校で先生の話を聞いているだけで、すべての掛け算はその場で憶えられない。このことが子供にはわからないのである。家ですこし復習をすればできるということを知るまでに、子供にとっての長い時間がかかるのである。この種の体験は個人によっていろいろ違いながら、いろいろと有るはずである。
 中学・高校へと年齢が上がると、こんな妙なことはありえないと思うべきなのか。しかし問題はそう簡単ではないのである。これは昔の時代であったから有ったのか、そうとも言えないのである。
 高校1年生の1学期の体験である。高校で数学が最初に嫌になる理由の一つが、例の因数分解である。問題の類型が幾つもあり、だんだん複雑かつ水準があがってくる。その解法に芸当性を感じて面白いと感じると同時に困った憶えはないだろうか。この因数分解を学習するとき(教師の立場からは単に教えるということだが)の心構えというものを、先生は生徒によく話しているだろうか。因数分解は初歩は簡単な発想で解が思いつくのだが、徐々にそれが不可能になる。しかし経験をふり返るとき、因数分解は直観で解くべきもの(解けるはずのもの)という誤った理解をした。教科書にはそれ以上の解法や説明もなかったせいもあるのだが、頭が空想的なのである。中間試験のときはそれを実行したのである。しかし無手勝流では実際解けないのである。これは同時併行に進んで行った幾何学にも同様な傾向があって、影響されたのだろう。幾何学はギリシャ時代の産物であるから直観的である。しかし因数分解も幾何学の問題も何んでも、すべて直観で済ませるものと誤解をしてしまっては、心得違いもはなはだしいことになる。しかし、直感から記憶へという数学としては余り面白くない流れに対する心構えを、子供たちははたして理解しているだろうか。
 心構えと一口に言っても、いくつかのレベルがある。
 まず数学一般の心構えについて、これは3年間(高校)に習う単元は、ギリシャ以来ほぼ近代にいたるまでの人類の得た数学史を習う(にすぎぬ)という理解。したがって問題を解く(そして試験もある)ことはあっても、数学史として展開されて来た数学的思考をなぞっていくことだ、とまず理解する(教える)ことが必要である。そうなると数学の学習上は、よく言われる数的な発見的行為ないし創造的行為とみなして(解法を見つけ出した喜びといったこと)、ただロマンティックに考えるべきではない。歴史的な学習行為であり、説明したり記憶したりする性格を帯びていることを心得させることが必要かと思う。直観や閃きといったことはむしろ無用の誤った観念であり、問題の意味を知り憶えればよいということを基本に置くべきだろうと思う(言い過ぎかもしれぬが、そのように表現した方が返って分かりやすく、役に立つのではないだろうか)。
 しかし、数学(算数)の授業は、子供たちにとって初めての数学的な追体験であるため、最初からその道のりを知っている教師の側では、どうしても発見的ないし神秘的な数学の誘惑にとらわれて、そうした教え方をしようとするおそれがある。(例えば、いろいろな解法があるのだとか、前もって詳しい解答を渡すと生徒が答えを丸暗記したりして思考力を妨げる、といった考え方などである)
 例の因数分解に話題を戻すならば、
 (1)因数分解は数学史上どういういきさつで発見され論じられたテーマか
 (2)因数分解は数学学習において何に役立つのか(どの程度重要なのか)
 (3)高校レベルで相手する因数分解のタイプはいくつあるか(解き方も)
 (4)二次式はまず一般解がある(因数形式に表現できる)こと
 (5)文字の次元を問わず「因数定理」がほとんど万能的に使えること(そしてこれは加減表現の代数式を、割り算表現に変換することである)
 (6)従って因数分解は代数式の掛け算方式であること(代数レベルの素因数分解であること)
 (7)「分解」というネーミングが付いているが、解体行為ではなく、合成して数的エントロピーを極小にし数式をコンパクトにすることである
 (8)学習上の役立ちとしては、せいぜい二次ないし三次方程式の解を出す際、あるいは二つの代数式の約分をする時に役立つ程度のものであること etc

 数学とは無縁だが、宮沢賢治の本に「注文の多い料理店」という童話がある。二人の鉄砲撃ちが山中に迷い、ようやく見つけた料理店に入る。都合良くおいしいものが食えるだろうと期待したのは良いが、一つひとつ扉を進むにつれ、何だか部屋の様子がだんだん怪しくなってくる。最後は丸裸同然にされたうえに調味料を頭からかけられて、あやうく山猫たちに食われそうになる奇談である。
 数学を例にして言うならば、心構えが不十分なまま教科書に沿って教えられてゆく(学ぶ)ならば、それは山猫亭のとらわれの猟師の立場になりかねない。次々と扉が続き単元ごとの部屋に通され、意味不明となってようやく解放され、数学嫌いのまま原野に立つことになる。すべて何のために、いま何をやっているのか、生徒と先生が繰り返し反省し合いながら、数学(算数)の階段を一段ずつ外さずに登って行かなければならないのである。

(2017年4月 記)