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イッセイエッセイ

1230号 リズムとシラブル

2017年06月14日(水)

 東京都内で車に乗ると米国のAFN放送(American Force Network)を聴くことがある。定時には関東地域(Kanto
plain)の米軍関係のイベント情報や米国からみた国際情勢に関するニュースが流れるのだが、昼の時間もせいもあってか、放送時間の中でほとんどは音楽つまりポップスが次々と流れる。
 どれも場違いな自分の耳には、同じ調子の早いテンポで、はじめ静かに後半盛り上がるといった調子の響きである。この種のサウンドを絶えず耳にしている日常となると、兵士たちの頭の調子はどうなるのかしらと勝手な心配をする。若い人のためのものであろうから、米国のナツメロ風の曲は流れないのである。昼の時間は、仕事のためにじっと聴く人たちはほとんどいないのかもしれぬ。夜間には、政治談議や人生相談のような番組も聴いていると流れているような感じを受けるが理解には無理なのである。
 さてこの五月連休は、家にいる時間が比較的あった。FMラジオも長時間番組の特集があって、懐かしい戦後間もなくの歌謡曲が昼から夜までずっと放送され、部屋に出入りしながらそれが耳に入った。その時に、今述べたような英語の音楽(ロック・ジャズ・ポップス・カントリー・フォーク・R&Bなど)のリズム、英語と日本語の違いの大きさ、大体かようなことが頭の中をよぎったのである。
 最近、英語の音楽も日本の音楽も歌としては互いに似てしまっているような気もするが、やはり英語の歌は一定のリズムで流れており、我々には気ぜわしく、彼らには快いのだろうと想像する。また、日本語とは違うので当然何を歌っているかは一層不明である。日本の歌の方も何を言っているのか分らないものも増えているが、気にならないのは調子が日本語のシラブルに合っているからだろう。
 例えば日本の歌曲「・・・春のうららの隅田川、のぼりくだりの船びとが・・・」は名曲である。言葉は難しくとも我らには限りなく心地良いものである。しかし、これを子音や二重母音が沢山あって強弱の明確な言語に馴染んでいる英語圏の人たちが聞いた場合、これだけ母音が突出してかつ長音の間延びした連結とシラブルでは、旋律の美しさはともかくとして調子が出ず、おそらく聴きにくいのではないかと想像するのである。
 ここ何回か、学校の英語授業を後方から指導する立場の先生たちと意見交換をした。生徒が英語を話せるようになるというのはどういう状態をさすのか、又そのためには「読む英語」と「話す英語」の教え方をどう区分するのか、英語と日本語の共通点や絶対的な違い、英語を教える時の教師(学ぶこととは表裏の関係)の「心構え」など、基本に立ち返って話し合ってみたのである。共通の理解も出来たことは事実だが、さすれば、いつからどう実行するのかの問題が残っている。
 具体の話をしてみたい。
 子供たちが、やや長い英文を読むとした場合、テーマができるだけ子供たちの知っている話、端的に言えば以前に学んだことのある国語の教科書に出てきた文章などを英語にして英語表現を学んだ方が、よほど英語の学習に役立ち効果があがるのではないかという議論になった。中学英語の教科書に出てくるようなグローバルな話題、例えばアフリカの子供についての物語を英語にしたような教材は、生徒にとってバックグラウンドの理解がまず難しくストレスがかかってくる。もちろん英語によって日本語では得にくい情報にアクセスできることが、英語学習の最終の目標となろうがだ。要すればすでに知っていることを英語で学ぶことは、同じ難易度の文章であっても、より理解が容易になるという学習上のテーマに関することなのである。
 それでは国語の教科書の中に、英文にして良い教材はあるだろうかという展開になった。そして、生徒たちがたいてい諳んじているという「竹取物語」の冒頭の一節は教材としてどうかという話になった。教師たちがまず英文に訳してみようかということであったが、ロナルド・キーンさんの邦訳があるのではという話が出て、捜し出したところ残念ながら文章として調子が出ない。では外国人の作品でカエル君の手紙をカタツムリ氏が配達する童話はどうか。しかしこれは日本語はやさしいのだが、英訳がどうなっているか。子供が好きな新美南吉の童話(船にのって飴玉をねだる母子とサムライの話)はどうか・・などとあった。
 一長一短はあるが、まずは気楽に始めるのが先決ということになった。いずれにしても話せる英語を意識して特別に教える方法をとることと、読む英語の世界にとどまりながら教室の中で英語を自由に話させようとすることとは、全く学習上のシステムが違うことを念頭におく必要がある。

(2017.5.4 記)