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イッセイエッセイ

1229号 言語に対する直感(寺田寅彦とノーム・チョムスキー)

2017年06月14日(水)

 物理学者の寺田寅彦(1878~1935年)は「比較言語学における統計的研究法の可能性について」(昭和3年1928年)という題名で、本来の専門分野とは離れた論文に近い随筆を書いている(「寺田寅彦随筆集」岩波文庫第2巻から)。
 寅彦は、世界の言語に類似性があるという直感から、言語間の数理的な解析を行って、統計的に期待されるべき言語間の符合率と実際の符合率を比較し、言語の系列関係の濃淡を比較する方法により、さまざまに試算と推論を行っている。なお数学的な部分はわからぬところもありメインではないので省略するが、ポイントはそうした発想の独創性にある。
 「とにかくギリシア古代と古代日本との間になんらの交渉もなかった(・・・・)という事を科学的に証明することをはたしてだれがあえてしうるであろうと思ったからである」(傍点・筆者)
 「十年ほど前に少しばかりロシア語の初歩を学んだ事もあった。それがために『言語の不思議』に対する好奇心と疑問とは、むしろ急に大きな高い階段を一つ駆け上がったような気がした。そして、一方で新しい不思議が多量に加わると同時に、他方ではこの新しい不思議が、かえって古い不思議のなぞを解くかぎとなりうる可能性を暗示するようにも見えた。それは単に語彙ごい中にあるもののみならず、その文法や接辞法に、東西を結びつける連鎖のようなものを認める、と思ったからである。」(下線・小生、以下同じ)
 言語比較についての以上のような寺田寅彦の問題意識なのである。
 「世界じゅうの人間の元祖が一つであるという事は単に確率論的の考察からもいちばん考えやすい事であるが、今ここで軽々しくそういう大問題に触れようとは思わない。ただ少なくとも動物学上からみて同種なホモ・サピエンスとしての人間の世界の一部において任意の時代に発生した文化の産物のすべてのものが、時とともに拡散して行くのは、ちょうど水の中にたらした一滴のアルコホルの拡散していく過程と、どこか類似したものであろう、という想像は、理論上それほど無稽むけいなものではあるまいと思われる。」
 ここに書かれている「大問題」、つまり地球上に人類がある時代から時間をかけて少しづつ拡散して行ったという考え方は、人類の起源や移住の原理論として、現在ではほぼ定説になっており、このことを先駆けて示唆したことになる。人類がそうであれば言語も同様な歴史をたどったと考えるのは、矛盾しない話となる。
 「以上の考察においては、最もこの種の取り扱いに便宜だというだけの理由から、単に『語彙ごい』『単語』のみを問題として、語辞構成法や文法上の問題には少しも触れなかった。しかし・・・・もっとも文法のごときものでも、これを数理的の問題として取り扱う事が必ずしも不可能とは思われない。事がらが、見方によってはある有限数の形式的要素の空間配列の方に関するものであると見ることができるからである。ばんきんの数学の種々な方面の異常な進歩はむしろいろいろな新しいこの方面の応用を暗示するようである。


 最近、英語の早期学習が全国の学校で進もうとしているが、根本に立ち帰って児童・生徒の英語学習を進歩させるためには、どんな方法が有効なのかと思うようになった。
 そうした疑問を持ちながら、チョムスキー「統辞理論の諸相」(1965年 岩波文庫2017年、福井直樹・辻子美穂子共訳)という本、この種の近づくべきかどうかわからぬ本、を一読し更にまた部分的に再読した。
 本書はチョムスキー氏(1928年―)のいわゆる「生成文法」と呼ばれる考え方の原論部分、文庫本では「方法論序説」という副題がついているが、原著の第一章だけを文庫化したものであると解説されている。そのためか具体例がほとんど付記されていないので、その意味するところは何んとなく分かるところもあるのだが、十分理解が及ばぬままで置かざるをえない本である。巻末の解説も残念ながら原著をなぞりながら要約している感があり、噛みくだいた解説がなされている訳ではない。よって、さらに俗なる解説書ないし著者の他の作品に本格的に当る他はないという結論になる。
 しかしともかく、著者チョムスキーは、人間の「言語獲得」がどのような根拠と手続きによって可能となっているのかの根本問題を論じており、それは例えば言語の獲得が自転車の乗り方を覚えるのと同じだというような経験や行動に基づくものではなく、まさに人間の頭脳や心に係わる極めて掴み難い現象として、厳格な方法論をいかに用いて解明できるか(筆者は学問的に未だわからぬ所が多い分野とあちこちで断り書きをしながら)に挑戦している。
 チョムスキーのアプローチーの基本的な立場は、言語構造の一般的な特徴というものが、人間の持つ経験を反映している(経験主義)というよりも、むしろ人間がその生物的形質として与えられている知識獲得能力(言語獲得能力)が示す一般的な特性(生得観念、生得的原理というような意味)を反映している(合理主義)と見る。つまり、ベーコンやヒューム的ではなく、デカルト的、ライプニッツ的な哲学なのである(本文にも、また訳者の解説にもそうある)。
 「人間の複雑な偉業を、何百万年にわたる進化に帰したり、あるいは物理法則にさらに一層深く基礎付けられているかもしれない神経の組織化に関する諸原理に帰したりするのではなく、何か月(あるいはたかだか何年)かの経験に全てを帰すような立場を、今日真剣に主張する理由は、明らかに全く存在しない。
 さらに、そのような立場に立ってしまえば、人間は、知識を獲得する方法において動物の中でおおよそ特異であるという結論を生むことにさえなるであろう。このような立場は、言語―人間の創造物であり、その内部組織において人間の内在的能力が反映されていることが当然のこととして予想されるような、子供の世界の一面―に関しては、とりわけ受け容れがたいものである。要するに個別主語の構造が、個人において意識的に制御できないような、そして、社会による選択や自由がほとんど利かないような要因によって、その大部分が決定されてしまっているということは、充分にあり得ることなのである。現時点で入手することが出来る最も有益な情報に基づけば、子供は、ちょうど立体的な物体を知覚しないでいたり、線や角に注目しないでいたりすることができないのと同じように、提示されたデーターを説明するような、ある特定の種類の変換文法を組み立てざるを得ないのであると考えるのは、理に適ったことのように思われる。」(文庫142-143頁)
 以上のようにチョムスキーは述べる。このことから、寺田寅彦がチョムスキー氏に先だって生成文法と類似の考え方を述べていると見てもよいのではないか。
 しかし、この地点までは結構なのだが、その先のチョムスキーの推論する普遍文法と個別文法(個別言語)、言語構造における表層文法と深層文法といった考え方が妥当するのかどうかは、研究者の間で十分な支持が得られていない状況のようだ。

(2017.5月中旬 記)

 

 物理学者の寺田寅彦(18781935年)は「比較言語学における統計的研究法の可能性について」(昭和31928年)という題名で、本来の専門分野とは離れた論文に近い随筆を書いている(「寺田寅彦随筆集」岩波文庫第2巻から)。 

 寅彦は、世界の言語に類似性があるという直感から、言語間の数理的な解析を行って、統計的に期待されるべき言語間の符合率と実際の符合率を比較し、言語の系列関係の濃淡を比較する方法により、さまざまに試算と推論を行っている。なお数学的な部分はわからぬところもありメインではないので省略するが、ポイントはそうした発想の独創性にある。

 「とにかくギリシア古代と古代日本との間になんらの交渉もなかったという事を科学的に証明することをはたしてだれがあえてしうるであろうと思ったからである」(傍点・筆者)

 「十年ほど前に少しばかりロシア語の初歩を学んだ事もあった。それがために『言語の不思議』に対する好奇心と疑問とは、むしろ急に大きな高い階段を一つ駆け上がったような気がした。そして、一方で新しい不思議が多量に加わると同時に、他方ではこの新しい不思議が、かえって古い不思議のなぞを解くかぎとなりうる可能性を暗示するようにも見えた。それは単に語彙(ごい)中にあるもののみならず、その文法や接辞法に、東西を結びつける連鎖のようなものを認める、と思ったからである。」(下線・小生、以下同じ)

 言語比較についての以上のような寺田寅彦の問題意識なのである。

 「世界じゅうの人間の元祖が一つであるという事は単に確率論的の考察からもいちばん考えやすい事であるが、今ここで軽々しくそういう大問題に触れようとは思わない。ただ少なくとも動物学上からみて同種なホモ・サピエンスとしての人間の世界の一部において任意の時代に発生した文化の産物のすべてのものが、時とともに拡散して行くのは、ちょうど水の中にたらした一滴のアルコホルの拡散していく過程と、どこか類似したものであろう、という想像は、理論上それほど無稽(むけい)なものではあるまいと思われる。」

 ここに書かれている「大問題」、つまり地球上に人類がある時代から時間をかけて少しづつ拡散して行ったという考え方は、人類の起源や移住の原理論として、現在ではほぼ定説になっており、このことを先駆けて示唆したことになる。人類がそうであれば言語も同様な歴史をたどったと考えるのは、矛盾しない話となる。

 「以上の考察においては、最もこの種の取り扱いに便宜だというだけの理由から、単に『語彙(ごい)』『単語』のみを問題として、語辞構成法や文法上の問題には少しも触れなかった。しかし・・・・もっとも文法のごときものでも、これを数理的の問題として取り扱う事が必ずしも不可能とは思われない。事がらが、見方によってはある有限数の形式的要素の空間配列の方に関するものであると見ることができるからである。(ばん)(きん)の数学の種々な方面の異常な進歩はむしろいろいろな新しいこの方面の応用を暗示するようである。」

 
 


 

 最近、英語の早期学習が全国の学校で進もうとしているが、根本に立ち帰って児童・生徒の英語学習を進歩させるためには、どんな方法が有効なのかと思うようになった。

 そうした疑問を持ちながら、チョムスキー「統辞理論の諸相」1965年 岩波文庫2017年、福井直樹・辻子美穂子共訳)という本、この種の近づくべきかどうかわからぬ本、を一読し更にまた部分的に再読した。

 本書はチョムスキー氏(1928年―)のいわゆる「生成文法」と呼ばれる考え方の原論部分、文庫本では「方法論序説」という副題がついているが、原著の第一章だけを文庫化したものであると解説されている。そのためか具体例がほとんど付記されていないので、その意味するところは何んとなく分かるところもあるのだが、十分理解が及ばぬままで置かざるをえない本である。巻末の解説も残念ながら原著をなぞりながら要約している感があり、噛みくだいた解説がなされている訳ではない。よって、さらに俗なる解説書ないし著者の他の作品に本格的に当る他はないという結論になる。

 しかしともかく、著者チョムスキーは、人間の「言語獲得」がどのような根拠と手続きによって可能となっているのかの根本問題を論じており、それは例えば言語の獲得が自転車の乗り方を覚えるのと同じだというような経験や行動に基づくものではなく、まさに人間の頭脳や心に係わる極めて掴み難い現象として、厳格な方法論をいかに用いて解明できるか(筆者は学問的に未だわからぬ所が多い分野とあちこちで断り書きをしながら)に挑戦している。

 チョムスキーのアプローチーの基本的な立場は、言語構造の一般的な特徴というものが、人間の持つ経験を反映している(経験主義)というよりも、むしろ人間がその生物的形質として与えられている知識獲得能力(言語獲得能力)が示す一般的な特性(生得観念、生得的原理というような意味)を反映している(合理主義)と見る。つまり、ベーコンやヒューム的ではなく、デカルト的、ライプニッツ的な哲学なのである(本文にも、また訳者の解説にもそうある)。

 「人間の複雑な偉業を、何百万年にわたる進化に帰したり、あるいは物理法則にさらに一層深く基礎付けられているかもしれない神経の組織化に関する諸原理に帰したりするのではなく、何か月(あるいはたかだか何年)かの経験に全てを帰すような立場を、今日真剣に主張する理由は、明らかに全く存在しない。

 さらに、そのような立場に立ってしまえば、人間は、知識を獲得する方法において動物の中でおおよそ特異であるという結論を生むことにさえなるであろう。このような立場は、言語―人間の創造物であり、その内部組織において人間の内在的能力が反映されていることが当然のこととして予想されるような、子供の世界の一面―に関しては、とりわけ受け容れがたいものである。要するに個別主語の構造が、個人において意識的に制御できないような、そして、社会による選択や自由がほとんど利かないような要因によって、その大部分が決定されてしまっているということは、充分にあり得ることなのである。現時点で入手することが出来る最も有益な情報に基づけば、子供は、ちょうど立体的な物体を知覚しないでいたり、線や角に注目しないでいたりすることができないのと同じように、提示されたデーターを説明するような、ある特定の種類の変換文法を組み立てざるを得ないのであると考えるのは、理に適ったことのように思われる。」(文庫142-143頁)

 以上のようにチョムスキーは述べる。このことから、寺田寅彦がチョムスキー氏に先だって生成文法と類似の考え方を述べていると見てもよいのではないか。

 しかし、この地点までは結構なのだが、その先のチョムスキーの推論する普遍文法と個別文法(個別言語)、言語構造における表層文法と深層文法といった考え方が妥当するのかどうかは、研究者の間で十分な支持が得られていない状況のようだ。