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1223号 外来語つまりカタカナ英語

2017年06月13日(火)

 日本語において英語をカタカナ語にして使用する習慣があり、特に最近はますますこの傾向が多いと思える。新聞紙面を見ても実に多くのカタカナ語が氾濫している。
 一方、明治期は現在とことなる環境にあったので、外来語は様々な漢語へと翻訳されたし、現在これを使っている我々にはそのことに気が付かない位である。
 中国語ではどうかといえば、カタカナもひらがなも共に無いから、ともかく一字ずつ音の似た漢字を羅列して使わざるを得ない。しかし、中国語では外来語をそのまま導入しての当初は、主として音をそのまま漢字として表すが、しばらくすると意味の通じる漢字に部分的に変えてゆく傾向があるようだ。日本の明治と現在との間の中間態ということになろうか(もう少し正確に調べる必要があるが、とりあえずこう言っておく)。もっとも固有名詞などはどうにもならないので、日本語の漢字感覚から言うと字面からは奇怪な印象を受ける音訳が生じるのである。ちなみに大統領のトランプ氏やマキロン氏は、特朗普、马克龙という表し方をするようだ。後者の方はさいわい人名のような印象をやや与える。
 ところで、日本語の中に入っていくるカタカナ英語はどういう品詞に多いかという点に関心を向けてみると、名詞が圧倒的に多いことがわかるが、なぜそうなのか。名詞はモノ、コトであるから、新しい物事が入ってきた場合にこれをカタカナで表すことが当然に起こることになる。形容詞などは日本語と語感がずいぶん違わなければ、カタカナにはなりにくいであろう。クールな、セレブな、リッチな等が限界的な事例だろうか。動詞になると一層カタカナ化は生じにくい。動詞の表現は、どこの国でもそう変わるものではなく、外国語に該当する母国語がれっきとしてある。動詞は使用頻度がすこぶる多いから、また動詞の一語がそれぞれ多義、多用途であるから、カタカナ化しても言語上の効率が良くないだろう。たとえばギブ(give)すると言ってみたところで新しい意味は生まれず、日本語で「与える」といえば十分である。これとは異なる意味でgiveは単独にも熟語でも英語としていろいろ使われているため、違う日本語が必要であり使いにくいのである。ここから英語の動詞はカタカナ語にほとんどならないと推量される。なお、ごく限られた例としてコミットする/サウンドする/ゲットするetc(全く名詞形のない動詞の例として)がとりあえず思いつく。
 こうしたことを考えてみると、英語学習の面から逆に眺めて、英語(外国語)の動詞こそ時間をかけて学習すべき事柄であるという理由付けができることになる。そして、よく使われる動詞のあやつりが成し遂げられた場合、言語上の報酬が大きいことを示すものである。

(2017.5.11 記)