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イッセイエッセイ

1222号 歴史の叙述態度(東洋史の祖・内藤湖南)

2017年06月13日(火)

 日本の東洋史の祖と言われる内藤(ないとう)湖南(こなん)(1866-1934年)は、幼時、儒学者の父から教育を受けた。秋田師範学校を卒業して、はじめ学校で教鞭をとりその後上京して、新聞記者、雑誌編集者として活躍し、特に中国問題を専門とする評論家としての地位を確立する。そして台湾や中国、満州、朝鮮を旅行、調査し、資料蒐集などを集った。京都大学に明治40年、文学部・史学科が開設されるに当たり、42歳の湖南は講師として迎えられ二年後に教授となり、東洋学の中心的人物として学問を重ね、当時の中国の時局政治にも深い見識を示す。湖南の学業は大学の同僚であった桑原隲蔵(武夫の父)とともに、彼らに師事した宮崎市定に引き継がれた(エッセイ1059号「歴史とは何か」~1062号、1064~1065号、1078号、1093号,1094号、1099号~1104号,1111号,1179号)
 湖南の学問は「精緻な論理で一つの体系を組み立てる点では些か遜色があるものの、鋭敏な直観によって物事の本質をすかさず把握するところが特色であり、その独創性は倦むことを知らない史料の収集によって培われたものだ」(解説・注解の徳永洋介の巻末後記から。内藤湖南著「中国近世史」2015年岩波文庫)
 湖南は、中国の近世は、宋代に始まる(出発点)という説である。理由として、(1)貴族政治が崩壊して君主独裁政治が成立したこと(科挙、朋党、官吏本位など功罪はあり)、(2)人民の地位の変化と平民(庶民)階層の抬頭(参政権ではなく、君主が人民と直接向き合うという意味の形態、人民の所有と居住・労働の自由―両税法、青苗法、募役法)、(3)文化の民衆化。
 (なお、この時代区分論については、宋代以降の地主・小作の農民支配の関係から、中世封建制の存在を積極的に主張する説(唯物論歴史家)が一方である。―上記解説から。)
 内藤湖南の「中国近世史」の叙述態度は、中国史と日本史・ヨーロッパ史をいわばモンテスキュー流に比較法制的に論じる姿勢があり、歴史上の人物や集団を史記列伝風にして評価する方法の面白さ(たとえば「天才」という用語は、ヘーゲルの「英雄」の観念に似る)がある。また、賢明な政治家たちの知恵を超えて、手段と目的において予想外の歴史的な結果が生まれる歴史の意外性などに真骨頂がある(湖南の生きた時代の中国清朝の激動とこれに対する思いと表裏の関係にある)。
 要するに内藤湖南の学説と説明は、留保や断り書きの甚だ少ない自信と勇敢さを持ったスタイルである。当時の(あるいは現代においても)平凡な学者が研究や学説を展開する場合、湖南の考え方や態度はすこぶる参考になり示唆を与えてくれるタイプの著作ではないかと想像する。
 巻末の解説によれば、「中国近世史」にも不備はあるにしても、「彼は凡庸な人間が予期せぬ必然を招き、人間の叡智や理想が思わぬ方向に歪められる瞬間を決して見逃さない」のであり、この点は著書を読んでいて興味をおこさせる部分である。ちなみに手元の「世界史」の教科書の該当の時代を眺めても、面白くも可笑しくもないのと対照的である。
 学校の歴史授業は、両者をバランスよく混合することが生徒の理解と興味を深めるためのポイントとなろう。

(2017.4.30 記)