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1197号 スペインのこと―フェリペ二世の時代(その3-1)

2017年01月11日(水)

(国王の性格)
 フェリペ二世(在位1556―98年)は、スペイン絶対王政の絶頂と衰退の両方を経験した国王である。このフェリペ二世はどんな人物であったか。
(以下の引用と記述は、第7章「ひとりの君主、ひとつの帝国、ひとふりの剣」および前章の6章 人種と宗教から)
 フェリペ二世は理想像とした父帝カルロス五世(スペインとしてはカルロス一世 在位1519-56年)と同じくらいの働きをしようと必死になって努力した。一方でたえず自分の能力不足を痛切に自覚することになり、優柔不断の態度を強めた(この性格はハプスブルク家に代々伝わる性質らしい)。そのためにいつも助言を必要とし、そうしながらも助言者の動機に強い疑念を抱いた。決断に悪戦苦闘をしいつまでも常にぐずぐずした。強い性格の人物を避けようとし、どうでもよいような卑屈で詰らぬ人物の助言を求めるのが常であった。信用したがらない反面、信じ込みやすい性格であり、公文書に埋もれている時にだけ安らぎを覚えた。他方で、神と国民に対する強固な義務感、王としての高度な道徳義務による行動への願望をもっていた。
 このように本書(「スペイン帝国の興亡」)を読んでいくとき、なんと大変なこの王様の性格よ、と慨嘆することになる。大国の王様だけにその苦労の深さは分るのだが、そのことだけで仕方がないと済ますわけにはいかないところがある。(第7章 <1>国王と宮廷 280頁あたりから)

(首都の問題)
 スペインの宮廷は、あちこちの都市を移動していた(前々号(その1)を見よ)。いわゆる首都移転ではなくて、そもそも決まった首都がなかったのである。
 しかし1561年にトレドから100㎞ほど北部のマドリッドに宮廷が移って以降は動かなくなる。マドリッドが厳密にスペインの中央にある、という地理的位置にあったという条件だけのことであったようだ。フェリペ二世は、領土内の他の地域に国王が姿をみせるという魔術的な効果を過小評価したこと、また半島の中央に居住すれば国民への対応が公平だという印象を与える、と誤解をしたふしがある。加えて宮廷自体がカスティーリャ化したために、周辺のアラゴンやカタルーニャ地域は、国王からは粗略に扱われている、見捨てられていると差別感を抱かれ、地域的な猜疑心が生まれた。(第7章<1>国王と宮廷から)
 「偉大な王国は、その心臓として機能できる都市を当然もつべきである。この都市は、身体のなかの重要な中枢をなす心臓のように、平和時にも戦時にも、あらゆる地域に等しく寄与できなければならない。」(年代記作者であるカブレーラの「スペイン帝国」(1876年)の記述から、本書が引用している)(第7章<1>同285頁)
 この記述は、首都の持つべき統合性と象徴性を表現しており、こうした考え方が誕生してきた様子を教えてくれる。

(スペイン語と神秘主義)
 以下の二つの引用を、若干の文化面での余談としてとりあげる。宗教(カトリック)との結びつきが、スペインではいかにも真面目で古風な態度である。
 1560年から70年代の精神的な復興運動のなかで、修道院を中心に内面的な信仰が新プラトン主義的な傾向の神秘主義の形で現われてきた。異端審問所は修道院で容易に監督できる神秘主義運動は危険が少ないとみて黙認する方針に変った。
 背景にはレパント沖(対トルコ)の海戦(1571年)によるスペインの自信、加えてペルシアの台頭によるイスラム・トルコの脅威の遠のき、トレント公会議による宗教活動の刺激、異端の弾圧の緩和などがあったようだ。
 「スペイン語が文学的な表現手段として卓越した特質を持つようになった時期に、神秘文学が栄えたということは、とくに幸運であった。なぜならば、神秘主義者は、神と霊魂の一致を追及するという困難な勤めについて述べるときに、散文と韻文の両方で、神との人格的・直接的な霊交という特殊な意識を伝えることができたからである。」(第6章人種と宗教 <6>戦う信仰と勝利の信仰 274頁)
 「一連の著述家が現われた。彼らは、異端的なマキアベリの教えを論駁することに余念がなかったが、その論拠は、すべての力は神に由来しており、その力を行使する場合、人々の心に植え付けられている自然法の命じるところに従うべきであるというスコラ学の伝統を再確認することであった。」(同274頁)

(2016.12.29 記)

(貴族間の派閥抗争)
 フェリペ二世は細心の注意を払って、大貴族の力をそぐため、彼らを中央政府の役職から締め出し、副王や大使、司令官などの職務を割り振った。
 しかし、「きちっと階層化された社会では、大貴族の要求・野心・反目などを無視することは不可能であった」。そのため、国内では大きな都市の支配権をめぐって貴族の派閥(血縁と込み入った親分子分の関係を土台に)が抗争を行った。これを鎮める唯一の方法は「宮廷において彼らにはけ口・・・を与えること」であったようだ。そのため、相対立して討論のできる諮問会議をつくり、両派をせり合わせ、見せかけではあるが脚光を浴びる場を作った。しかし本当の権力者はこの「会議ではなく国王である、という事実を隠すには好都合であった」。(以上第7章<2>派閥抗争291―292頁から、傍点原書)
 こういう状況下のため、1560年以降のネーデルランドの叛乱(独立)の問題は、抑圧策か交渉決着かで、戦略方向について国論を二分することになってしまう。しかしスペインは、軍事費に投入できる国の予算そのものが、借金と重税の中で既にこと欠いており、宮廷内の「陰謀」と派閥争いが重なって、有効な交渉に失敗をする。(第7章<2>同295―297頁から)
 このことを見るにスペイン本国は、ヨーロッパ大陸において辺境のハンデを負い、しかも歴史的なめぐり合わせによってヨーロッパ各地に領土を広く分散して領有する宿命を負った(おまけに新大陸も発見によって領土になった)。そのため旧来型の領土・王権の支配に基づく統治観では、全体を制御することがほとんど不能であり、アメリカからの銀をもってしても内憂外患の解決にほとんど展望が見出せなかったことが知れる。
 ひるがえって明治後期から昭和期前半にかけての日本の対外戦略を反省するとき、このスペインの状況とはスケールも隣国関係も格段に異なるものの、能力に余る冒険行為は国益を損い、結局は他国に利益をさらわれてしまう点において類例となろう。

(ポルトガルの併合)
 しかし、1580年~90年代のフェリペ二世治世の最晩年においては、これまでの守勢(ネーデルランド叛乱、王国の財政破産など)から一転して、輝かしい過去の栄光に回帰するような形で、帝国拡大のため攻勢に転じる局面を迎える。
 何故にそうなったのかは、ペルー産銀の精錬方法にアマルガム導入の効果が出はじめて、供給量が飛躍的に増大した背景があったからであると、著者は言う。
 フェリペ二世は「慎重な国王」という伝説を塗り変えて、世界の支配者であるように一時期みなされることになる。
 当時、隣国のポルトガル王国はスペイン経済(銀)への依存を強めていただけでなく、インド貿易の赤字、アフリカ遠征の失敗、国王の死などによって、深刻な国内不安の状況にあった。スペインは一大チャンスとみてポルトガル宮廷の買収工作、同国議会の同意を取りつけ、穏便な併合をねらうが、大衆や下級聖職者の反抗にあう。最後には軍隊を侵入させて併合し、イベリア半島は一人の国王の下に統一されることになった(なお併合は60年間で終りをむかえる)。
 「ポルトガルは、この時期に・・・・・経済上の理由によってスペインとの政治的な結びつきを必要としており・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、その結びつきは、ポルトガルの経済に実質的な利益がもたらされるかぎり続いた―だが、利用価値がなくなると・・・・・・・・・・その関係は続かなくなった・・・・・・・・・・・・ということは注目に値いする・・・・・・・・・・・・・。」(第7章<3>ポルトガルの併合308頁、傍点小生)
 「アラゴン連合王国が100年前にカスティーリャに統合されたのとまったく同じ方法で、ポルトガルは1580年にカスティーリャに統合された。つまりこれは、独自の法律・慣例・貨幣制度を持続し、共通の君主を戴くという意味だけの統合であったのである。」(同309頁)

(2016.12.30 記)