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1196号 スペインのこと―カルロス五世の時代(その2)

2017年01月10日(火)

(各領土の独立化と官僚制度における権限の分立)
 スペインの統治はフランスのような中央集権ではない。一方で分権を意識した訳ではないだろうが、統治の全体が不徹底である。
 「カルロス五世の考えている帝国とは、共通の君主によってほとんど偶発的に結びつけられたさまざまな領土の単なる集合体にすぎない、というものであったが、この考え方からは、ふたつの重要な結果が生まれてきた。まず第一に、これらの領土のさまざまな国制が「凍結」されてしまった。各地域は、自分たちが伝統的に保持してきた地位を脅かすような動きには、どのようなものであれ、警戒を怠らなかった。そのために、帝国全体に共通した制度組織はその発展を抑えられてしまった。」(第5章カルロス5世治下の政治と経済<1>帝国の理論と実際 183頁)
 「スペインの行政組織には、抑制と均衡の仕組みが数限りなく複雑に組み込まれていたので、この組織は、非常に多くの機関に権限を均等に分散してしまい、各機関は結局なんの力も持たなくなってしまったのである。」(同章<2>帝国の組織 194頁)

(重商主義政策の不在)
 祖父マクシミリアン一世の死によって神聖ローマ帝国の皇帝も兼ねることになったカルロス五世と、その国璽尚書であったガッティナーラは、スペインの行政機構の合理化、改善を進めた。王室会議から発展して1480年にでき上っていた「カスティーリャ会議」の中の財務関係の部局、これを吸収して北方フランドルの彼らの経験例を見本にして「財務会議」を1523年に設立させている。王国の歳入歳出予算の検討、増大する出費の責任保持、支払能力を担保するための大規模な信用操作を任務とした。(同章<2>帝国の組織 190頁前後から)
 「カスティーリャの経済上の失敗に対する責任の大部分は・・・・・・・・・・・・・・・・・企業家段階よりももっと高い段階に・・・・・・・・・・・・・・・・実業家よりも政府に・・・・・・・・・あるのは明らかである・・・・・・・・・・。事実、政府の欠陥の多くは、財務会議の持っている弱点をみれば分かる。その構成メンバーは、ほとんどすべての者が個人的には、商業と金融についての経験を持っていなかった。彼らは、首尾一貫した経済計画を編み出そうともしなかったし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・アメリカ帝国の獲得が・・・・・・・・・・カスティーリャ経済にどのような関係を持つかについて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・よく考えようともしなかった・・・・・・・・・・・・・。16世紀スペインの「重商主義的」政策が、引き合いに出されることが多い。しかし、国がこのような深刻な経済困難にぶつかったのは、(セビーリャの独占を除いて)一貫して推進された重商主義政策がまさに欠けていたためである・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・という議論は、的を射た意見であろう。」(同章<3>カスティーリャの経済 219頁、傍点小生)
 すなわち、
 (1)新世界の資源を組織的に開発しようとする試みは、鉱物資源を除いてまったくなかった。
 (2)新世界にカスティーリャの経済を補完するような経済を発達させるようなことはほとんど何もしなかった。例えば、輸出産品のブドウ酒(アンダルシア産)やオリーブ油と競合するペルー産のものを恐れて、新大陸のブドウ畑などの破壊を命じた。その一方で植民地の他の産業は放任し、絹産業(グラナダ)と競合したヌエバ・エスパーニャの絹産業を特別に奨励さえした。
 (3)貿易独占に必要な船舶について深刻な不足の問題に取り組む努力はまったくしなかった。
 「この問題に対処する正しい方法は、国内における産業の発展を促進することであるということに、政府は気づかなかったようである。」(同220頁)
 もっとも重大な失敗は・・・・・・・・・・アメリカから供給された銀を・・・・・・・・・・・・・カスティーリャ経済の利益のために使う施策を案出できなかったことである・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。この失敗の責任は、直接的には、財務会議が負わなければならないが、最終的には・・・・・カルロス五世が・・・・・・・その銀を自分の帝国拡張政策への資金調達につぎ込んだという・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・非常に大きな問題との関連において考察される必要がある・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」(同220頁、傍点小生)
 このような著者のカルロス五世治下の経済政策に対する批判的な指摘を読むとき、「スペイン人には商売の素質が欠けているという知れわたった偏見があったにもかかわらず」(217頁)、むしろスペイン人の実業家が商才や金融技術の点で他のヨーロッパの同業者に比べて遜色があったのではなく、アメリカ市場の拡大と自由経済への取り込み、アメリカ産の銀の大量輸入の利用に関し、最近の用語でいえば、国家としてグローバル戦略に欠け、あるいは広大な帝国の下での覇権主義に関心が向きすぎたことに原因があったのか、の問題に行き着く。
 セビーリャの町は、フランス革命の時代にはもうオペラの舞台にしかならないさびれた都市になっていたのかもしれないが、新大陸発見のころには「ブームにわくスペイン最大の都市のひとつとなり、ここよりも大きな都市としてはパリとナポリがあるだけであった。」(同205頁)と記されている。1500年ころは人口が6万人ないし7万人であったが、その後の疫病とインディアスへの男たちの移民によって人口は減少したが、1530年からは人口が戻ったばかりでなく急増しはじめ、1588年には人口が15万人の都市になったという記録があるようだ。
 「カスティーリャの人口バランスは北から南、西に徐々に傾いていった。」(同章206頁)

(2016.12.18 記)