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1195号 スペインのこと―なぜ「ドン・キホーテ」が生まれたか(ハプスブルク朝スペイン)(その1)

2017年01月10日(火)

 以下は、J.H.エリオット著(1963年)「スペイン帝国の興亡 1469―1716」(藤田一成・訳 岩波書店 1982年)を断続一カ月ほどかけて通読しての、本著書の要約のようなものである。上記の著者は、ハックスタブル卿であるジョン・エリオット(1930年~)という英国のスペイン史家である。
 小説「ドン・キホーテ」を楽しんでいるうちに、面白いことは確かなのだけれども、小説の背景になっている当時のスペインの風土と生活環境の異様さがどうも気になってこの本を手にしたのである。

(軍事・聖職・移住)
 「レコンキスタ(国土回復運動)は、単に軍事的活動だけではなく、さまざまな側面を持っていた。これは、異教徒に対する聖戦であると同時に、略奪をめざした一連の軍事遠征であり、また大衆の移住活動でもあった。レコンキスタの持つこれら三つの様相は、すべてカスティーリャの生活様式に強い影響を及ぼした。」(第1章ふたつの王国の統合<2>ふたつの王国 23頁から)
 その結果、スペイン(カスティーリャ)の聖職者たちは大きな影響力と特権的な地位を享受することになった。なぜなら、彼らは大衆に対して解放に対する情熱と使命をやきつける仕事を担ったからである(特異性をもった戦闘的キリスト教の誕生)。また貴族たちは、本当の富は戦利品と土地から作られるものであると確信するようになった(武力により富を得ることを尊敬する郷士(イダルゴ)の成立)。そして、大農園の強化と農村地帯の富に頼って生活する大都市(コルドバ、セビーリャ市など)が発展してゆく。

(寛容と狂信)
 「強硬な政策を主張する中心人物はトレドのシスネーロス大司教であり、(中略)狂信者にありがちな、なんの見通しも持たないままに、彼は穏健なタラベラ(拙注―初代グラナダ大司教)を退け、強制改宗と大量洗礼を図る政策を推進していった。彼の活動によって、だれもが予測できるような悪い結果がすぐ生じた。」(第2章レコンキスタと海外征服<1>レコンキスタの完了 47頁)
 イスラム国のグラナダが陥落した後(1492.1.2)、スペインのモーロ人に対する宗教的な取扱いが、寛容な政策から強硬へと変じてゆくときの弊害が上記に描かれている。

(商人と戦士)
 「コロンブスは、冒険的な商業活動とカナリア諸島の植民で得た経験を、カスティーリャから引き出すことができた。しかし、彼にとって不運だったのは・・・・・・・・・・・・カスティーリャの商業的伝統はまだ十分に確立しておらず・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・その軍事的伝統に比肩できるほどの成功を収める可能性を持っていなかったことである・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。コロンブスは、貿易基地と商業上の前哨基地を設置することを自分のおもな任務と考えていたが、大半のカスティーリャ人は軍事的進出の継続、新しく獲得した土地の分割、戦利品の分配、および異教徒に対する改宗活動という考えに慣れきっていた。このように商人と戦士を土台にしたふたつの相対立する伝統が激しく戦うようになることは避けられなかった。この戦いでコロンブス自身は敗れ、身を引くことになったのである。」(第2章<3>中世の遺産 58頁、傍点小生)

(時代と遅速)
 「コロンブスは、イサベル女王の死の二年後の1506年に死んだ時には、すでに過去の人物になっていた。彼はハイチ(エスパニョーラ島)に植民し、貿易分野で独占的地位を確立しようとしたが、この意図は1498年の終りに頓挫してしまっていた。新たな発見がつぎつぎとなされ、また旅行から帰ってきたばかりの人々の物語に煽り立てられて、金を発見できる見通しがますます明るくなってきたことから、移住希望者は出国しようとやっきとなっていた。」(第2章<4>アメリカ征服 59頁)
 上記は、コロンブス(コロン)の歴史的悲劇であり、死後の評価による世界史的な偉業という勝利への皮肉である。コロンブスはジェノバ人であり、商業的伝統の代表者といってよかった。一方のイサベル女王のカスティーリャには、まだ成功したばかりのレコンキスタという中世的な伝統が残っていて、コロンブスの大きな意図はスペイン王国の時代精神に対して先回りをし過ぎている位置にあったのである。そして新大陸の発見後は、逆に古い伝統の変形ともいうべき一攫千金の荒っぽい冒険精神の現実に、自己の立場を追いぬかれてしまった。

(スペインの旧体制のままの発展)
 「画一的な行政のやり方を導入し、権力を君主の手に集中させることが、もしもルネサンス期の国家の重要な特徴であるとするならば、フェルナンドとイサベルのスペインは、これらの条件を満たしているとはほとんど思われない。フェルナンド統治下のアラゴン連合王国では、王室の権限は、限定された範囲でしか行使できないようになっていたが、それをもっと拡大できるような動きは正式にはなにもなかった。」(第3章スペインの新体制<1>新しい君主国 82頁)
 アラゴン王国は新しい制度をつくるよりも伝統的な制度に活力を与えることにより、平和を回復することになった。カスティーリャに対しアラゴン連合王国は対照的に権威主義的な体制がつくられ、スペインは統一の国家ではなく複合国家のままであった。こうして、スペインでは頂点に王権、中間に市会などの自治団体(コムネーロス)(国王からの特権附与と監視)、底辺に領主権(農業人口の大部分を占める領民の支配権をもつ貴族層)の三層からなる社会構造がそのまま維持されたのである。しかし支配者として両王夫妻ともに、秩序と正義を行う使命感をもっていたので、社会構造を超えて新しい国家が発展してゆくことになった。

 次に、フェルナンド・イサベル両王の初期、およびそれ以前から進められていた地方都市(自治体)の弱体化策つまり国家統一をめざす途中における王権の中央集権化の動きの若干を引用する。
(地方自治と王権)
 「地方都市をもっと厳しく監視することは、議会を統制し、カスティーリャ全体に王権の優位をしっかり確立するための基本的な前提条件であったといえる。なぜならば、カスティーリャの原野に散在している城壁に囲まれた都市は、都市国家の特質を多く備えており、王室に対して、広汎な自治権を持っていたからである。これらの都市は・・・・・・・レコンキスタの南進につれてつぎつぎと建設され・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・また広大な共有地を気前よく贈られた・・・・・・・・・・・・・・・・・この共有地のおかげで・・・・・・・・・・都市の管轄区域は隣接地域にまで広く広がるようになり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・都市は・・・出費の大部分をまかなうことが可能になった・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・地方特権(フエロ)によって・・・・都市は・・・市会(コンセツホ)を組織する権利を与えられた・・・・・・・・・・・・・。」(第3章スペインの新体制<2>カスティーリャにおける王権の強化 94頁)
 スペイン(カスティーリャ)の地方都市が成立した歴史的根拠が上記には描かれている。この状況はほぼ同時代(若干遅れているが)の日本の戦国時代の城下町の成立にやや似るが、自治権という観念はスペイン(ヨーロッパ)に特有なものに思え、諸外国との交易が日本にはほとんどなかったので作られたシステムにも差異がでたのか(どんな研究があるのだろうか)。
 「14世紀には、その前の200年間にわたってカスティーリャの市民生活を特徴づけていた強固な民主的伝統は消え始めていた。地方行政府の仕事がさらに複雑になり、王室が地方自治体の持っている力をますます嫉むようになるにつれて、市会は内部からきりくずされると同時に、外部からの攻撃にさらされるようになった。アルフォンソ11世(1312―50)の治世中に、市会はいたるところでその権限の多くを行政担当役人(レヒドール)に奪われた。レヒドールは、世帯主(ベシーノ)によって選ばれる代りに、王室によって任命されるようになった。」(同95頁)

(自治か秩序か)
 「このような状況下で、イサベルが14世紀の前任者たちの政策を再び実行しようとしたのは、当然である。カスティーリャの諸都市は、その当時、自治を守ることよりも・・・・・・・・・・秩序を回復することの方にもっと気を奪われていた・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ので、事を起こすには非常に都合のよい時期であったといえる。」(同95頁、傍点小生)
(拙注―14世紀には自治体市民の世帯主が選んでいたレヒドールとは異なる国派遣のコレヒドールという新しい形の役人が出現し、行政面でレヒドールを補佐するために自治体に出向するようになる。徐々に自治体のレヒドールの職務が狭められると同時に、自治体の司法を担当していた判事役(アルカルデ)の仕事も奪うようになった。)

(人材登用)
 宮廷の人材の登用は、古今東西、君主の重要な仕事であったようだ(以下の描写は若々しさとほほえましさを感じる風景である)。本書にはこの点での両王の若々しさと意欲の感じられる記述がある。しかし、そのことは低い身分の者を登用することは欲しても旧来の身分体制そのものを改善しようとする意図は全然なかったと記述している。
 「治世初期の勢い(拙注―両王は1469年に結婚)を維持し、1470年代、1480年代の改革を定着させるには、どうしても有能な役人を選抜する必要があった・・・・・・・・・・・・・・・・フェルナンドもイサベルも・・・・・・・・・・・・このことについてははっきりと認識し・・・・・・・・・・・・・・・・・人事に関して非常に苦労をしていた・・・・・・・・・・・・・・・・たとえば・・・・旅行の際には・・・・・・一冊のノートを持参し・・・・・・・・・・これに有望な人材の名前を書き込むようにしていた・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」(同92頁、傍点小生)
 「しかし、カトリック両王が役人を登用する際に、どちらかというと低い社会階層の者を優先したからといって、これは、ひとつの社会階級を、ほかを犠牲にして、階級として引き上げようという意図を示すものでは決してない。貴族階級は、その政治的権力の大部分を奪われたが、これは、王室と地域社会全体の利益のためになされたのであり、郷士や都市住民や特別なほかの社会階層のためになされたのではない。」(同92頁)

(宮廷と移動首都)
 王の宮廷(首都という観念はまだなかったのか)が定まらずに移動していたというのは、遠くゲルマンの民族移動やレコンキスタの政治的南進、さらには羊の遊牧など、移動することが苦にならない風土の出来事と感じる。しかしこの史実を見ると、ルソーが『社会契約論』の中で、都市が独立していて、人民が国家主権に従属すると同時に自由である(臣民であり主権者でもある市民)ためには、「首府を認めないことだ。すなわち、政府を、各都市にかわるがわるにおき、国家の会議を順番にそこに開くことだ(第三編13章)」と主張するとき、あながち突飛な発想ではないことになる。(みやこ)が常に定まっているという日本には見られない現象である。また両王の統治によって生じた光と影がある。
 「宮廷は、当然のことながら、カスティーリャの文化生活の中心であった。スペインにはまだ固定した首都というものがなかったことから、宮廷は絶えず移動していた。宮廷は、国内を転々とするにつれて、訪れた町につぎつぎと新しい知識をもたらし、さまざまな影響を及ぼしていった。イサベルは、学問を奨励したことについて、ヨーロッパでも名声を博していたので、……ここは新しい人文主義の前哨地となり、この新しい思想はスペインに根を下ろし始めた。」(第3章<5>開かれた社会 133頁)

(栄光に満ちた時代か)
 「フェルナンドとイサベルの治世を栄光に満ちた春の季節とみなし、彼らの後継者たちが愚鈍であったためスペインがその後たちまち冬の季節に様変りしてしまうといったような、決まりきった図式に対しては、ここで、二人の治世について都合の悪いことをいくつか示す必要がある。彼らはふたつの王国を統合したが、ふたつの住民を統合するというもっとも骨の折れる仕事を試みてみることさえしなかった。彼らは、大貴族の政治権力を破壊したが、その経済的・社会的な影響力については手をふれずに放置しておいた。彼らは、カスティーリャの経済を再編成したが、その代わりに、大土地所有制を強化し、農業よりも牧畜を優先した。彼らは、独占的な性格を持ったアラゴンの経済制度をいくつかカスティーリャに導入したが、カスティーリャとアラゴンの経済をほんの少しでも統合することさえできなかった。彼らはカスティーリャに秩序を回復したが、その過程で、絶対主義化への道を阻もうとして立ちはだかったもろい防壁(拙注―自治体のことと思われる)をうちくだいてしまった。彼らは教会を改革したが、異端審問所を設立した。そのうえ、彼らは、社会でもっとも活動的で資力のある階級であるユダヤ人を追放してしまった。これらのことはみな、しばしば明るく描かれすぎているきらいのある絵を暗くするものといえよう。」(同131頁)

(2017.1.1 記)

(ユダヤ人の問題と追放)
 カトリック両王がとった政策は目ざましい成果を上げたばかりであり、またイスラム教徒のグラナダ王国を遂に崩壊させたという長年の悲願も実現させた。こうした成果を目の当りにするとき、人々の宗教的感情が異常な高まりをみせ、両王が世界を解放するという聖なる使命を委ねられている、と考えるようになったのは不思議なことではない。
 「この使命を立派に果たすためには、彼らは、まずキリスト教に内在する多くの不純なものを清めなければならなかった。すべての汚染源のうちでもっとも有害なのは、衆目の一致するところ、ユダヤ人であった。かくして、かなり以前に始まっていた悲劇は、カトリック両王の治世中に、その終幕を迎えることになったのである。この悲劇の進行に当っては・・・・・・・・・・・・両王自身が・・・・・一方では国民を動かしていたが・・・・・・・・・・・・・・他方では国民に動かされていたといえよう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」(第3章スペインの新体制<3>協会と信仰 108頁、傍点小生)
 「聖職者は、彼らの改宗の誠実性を問題にしていたし、貴族は、富裕なコンベルソ(拙注―改宗した新キリスト教徒のユダヤ人のこと)からの借金に自分たちが依存していることに憤慨していた。また、大衆一般は、とくにアンダルシアでは、収税吏や貴族の財務担当者として彼らが活動していることを憎んでいた。」(同109頁)
 「これから行なおうとしている大事業をなしとげるのに必要な人的資源は、15世紀のスペインでは十分にはなく、当然のことながら、ユダヤ人の追放によってこれは減少した。1492年という年に、スペインからは、ひとつの活動的な社会―その資本と技能は、カスティーリャを豊かにするのに役立っていた―が消滅してしまったのである。ユダヤ人の残した穴を埋めるのは容易なことではなかった。彼らの多くにとって代ったのは、原住民であるカスティーリャ人ではなく、フランドル人、ドイツ人、ジェノバ人などの外国から移民してきた居留民であった。これらの外国人は・・・・この新しい機会を利用して・・・・・・・・・・・・スペインの資源を豊かにするというよりは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・むしろ搾取しようとした・・・・・・・・・・・。ユダヤ人の追放は、このように、帝国としてのスタートを切ったその当初において、大スペイン王国の経済的基盤を弱める結果になったのである。そのうえ、もっと不運だったのは・・・・・・・・・・フェルナンドとイサベルの経済および社会政策が・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・結局は・・・スペインの再生をめざす彼らのプログラムのなかで・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・もっとも成功しなかった分野である・・・・・・・・・・・・・・・・ということがはっきりしたことである。」(同114頁、傍点小生)
 スペインがあれだけのインディアスの金銀をものにし、しかもヨーロッパ各地に領国を有しながら、繁栄と没落を短期間のうちに経験することになったのは、こうしたカトリックの原理主義による経済的打撃(伝統的な宗教心と近代的な勤労精神の離背)が根本原因とするのが定説である。しかし問題を精神の指導原理だけにかぶせるのではなく、原理実行の手段の不徹底にあったのではないだろうか。

(2017.1.2 記)