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イッセイエッセイ

1193号 寛容もしくは余裕の精神

2017年01月09日(月)

 パールハーバーから75年、真珠湾慰霊の安倍首相の演説が今朝の新聞に掲載されている。その演説の後半に以下のようなくだりがある。
  What has bonded us together is the power of reconciliation, made
possible through the spirit of tolerance.

  (私たちを結びつけたものは、寛容の心がもたらした「和解の力」である。)
 同紙(毎日新聞)のオピニオンの紙面で、ジャーナリストの松尾文夫氏は、氏がかねてから熱心に提唱されていた日米両首脳の広島・真珠湾の相互訪問と献花が現政権中に実現したことについて、日米の「和解の儀式」が行われたとして非常に感慨深いと述べられ、さらに和解の精神をアジア全体に広げるべきであると言及している。
 さて「寛容の精神」は、イギリス経験哲学の伝統の中などに在り、日本の近世においても類似の心構えが見られるように思う。しかし、寛容もしくは余裕の精神は、眼前の直面する事象よりもさらに厳しい現実の経験を持ち合わせていなければ、自然な力としては現われ出ない種類のものと推測する。
 些細な私事ながら、10年あるいは20年・30年前の先輩たちとの職場での仕事を通じて、彼らから教わった経験を時折ふり返ることがある。事に臨んでいささかなりとも余裕、落着きを示しておられたのは単に年の功のせいではなく、先輩たちが先の戦争で厳しい経験を直接、間接にしていたからではないかと今に思うのである。「この修羅場では相手をすこし許すもんだよ」、「そんなにカッカして事を進めなさんな」などと窘められたのである。
 さて当面する物事に対する寛容と、時間の経過による過去に対する寛容とは自ずと別のことであるかもしれぬ。過去の出来事に対するものは、それが歴史として風化し物語化した結果にしかすぎないからである。

(2016.12.29 記)