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イッセイエッセイ

1191号 雑想(20)

2017年01月03日(火)

(国情の違いとシステム)
 ドイツのサラリーマンは、国の法律によって給与明細から教会税が差し引かれているなど宗教と国家の結びつきが意外と強い国である(廃止の動きが政治問題化しているようだ)。多くの国(アメリカ、カナダ、イギリス、フランス、イタリア、ドイツ、オーストリア、エジプト、香港、中南米諸国)はチップ社会であり、逆にチップのない国は、オーストラリア、ニュージーランド、韓国、中国、シンガポール、東欧諸国である。ものの値段やサービスの考えが極端にちがってくる。徴兵制(ロシア、韓国、ブラジル、メキシコ、コロンビア、フィンランド、オーストリア、ギリシャ、イラン、トルコ、タイ、ベトナムなどにはある)と投票権の関係などもさまざま。米国は「銃を持つ民主主義」である。
 日本の問題を考えるとき、島国の条件もあるせいか、諸外国の制度やシステムを部分的な知識で表面的にしかとらえられないところがあるので、余程注意をしないと、妙に感心したり自虐的になったりしてあらぬ誤解をして、おかしな「制度設計」や「政治判断」をしてしまうことになる。

(2016.9.18 記)

(反「新自由主義」)
 「これから始まる“新しい世界経済”の教科書Rewriting the
Rules of the American Economy」(J・E・スティグリッツ 2016年 徳間書店)は新自由主義への反論と提言である。
 サプライサイド(供給重視の)経済学である規制緩和や福祉抑制(行動意欲に反するから)によっても、豊かさの余恵は多勢の人たちにトリクルダウン(したたり落ち)しなかった。
 経済の自由化と特別利益団体、規制緩和された金融センターが企業に“短期主義(short-termism)”を奨励、バブルの発生(IT→住宅)/グローバル化・テクノロジー化→労働コストの“底辺への競争”/垂直統合による製造業の衰退→低賃金、高レントの21世紀の米経済…。政治の意志によって、ぜひともルールの書き換えをねがう。
 市場は空にあるのではなく法律制度と政治制度がつくっている。成長と分配はどちらかの選択でない。繁栄の共有をなしとげる→単なる再分配ではない→賃金をふやし、経済力と政治力を向上すべきこと。
 トリクルアップ→中間層から経済を立て直す。平等と経済実績はトレードオフでなく補い合うもの。
 このような主張をするスティグリッツ氏は制度派経済学者のようである。
 ルールの重要性と権力の重要性(構造的な要素に焦点をあてる)。経済の合理化(地代上昇←都市化と経済の金融化)⇔ピケティ氏のいう富の増加でなく固定資産の価値増加(搾取レント)。資本の増加が富の増加にあらず(レントの増加にすぎぬ)、Rent seeking。民間セクター・労組・政府の力のアンバランス。教育・研究開発の低下とイノベーションの衰退が発生。
 日常的な不平等の経験、経済を構築するルールをつくる。世界規模の大きな力(テクノロジー、グローバル、人口動態)→侮れない力だがよりよい方向へ作り替えることはできる…etcの主張(荒っぽい要約のママ)。

(2016.9.18 記)

(自由の起源)
 日本語で「自由」と訳されている言葉としては、libertyとfreedomがあり、前者はラテン語系、後者はゲルマン語系に由来する。猪木武徳著「自由の思想史」(新潮社2016年)によれば、リバティは世帯内における自由な成員を指した言葉で、世帯長との親族上の結びつきを有する成員を意味していた(奴隷ではないことになる)。したがってそれは「特権」を含意しており、この特権が貴族・地主・僧侶から一般の市民へと広がる「普遍化」が、リベラリズムの発展を意味した。
 一方のフリーダムは、古代ゲルマンにおいてもまた中世においても、「保護されている」という意味が含まれており、単なる無拘束や放縦ではない。その内味は意外なことに「保護権との依存関係」、「護られてのみ存在する価値」であり、自由ということと護る力とが不可分の関係にある。
 大略「自由」に関してこのように述べる(なお、この考えは著者が引用する堀米庸三の「正統と異端」1964年、「ヨーロッパ中世の構造」1976年に示唆されているという)。
 自由というのが根ッ子のない空事と考えるのは、現代人の表層的な思考による誤解であることになる。

(2016.9.17 記)

 ここからはおそらく「自由」とは、組織あってのもの、国家の制約の下にあっての権利、という議論が展開されることになるのだろう。
 一般に「自由」と言われる問題が、以上のような歴史的な由来をもっていることに、ある程度の理解を示すことにしておいて、現代の自由に目を向けるとき、それらが余りに発達しすぎて、この言葉が自由自在に幅広く「正義」や「民主」と並んで大事な価値をもつ語として公理的に用いられるようになっていることに気づく。
 フランス革命後に、そうした傾向は既にあらわれていた。例えばヘーゲル(「歴史哲学」)が、以下のように神秘的に断言するとき、「自由」は絶対的な価値を獲得したことになる。しかしあたりまえの「重力」の起源が現代ではようやく科学的にそれなりに分かるようになったのとはことなり、「自由」の起源の方は歴史的にすでに明らかなのである。
 「物質の実体が重力であるとすれば、精神の実体、本質は自由・・であるといわなければならない」、「自由が精神の唯一の真理であるということこそ、思弁哲学の認識の成果にほかならない。」

(2016.12.24 記)

(保守が守る何かとは何か)
 この夏に出版された宇野重規著「保守主義とは何か―反フランス革命から現代日本まで―」(中公新書)を再読する。本書は革新思想にも目を向けながら、保守主義とは何かを、各国と主要な思想家、政治家を押えながら、改めて吟味しようとした書物である。
 保守主義を主張する者が自分のことは当然として、それ以外の一体何を守ろうとしているのかについては議論があるようだ。伝統か権威か、それとも過去や世代の継続か、さらには秩序か制度か、公共か国民基盤か…。保守とは決して反動や復古には非ず、しかし理念だけにはとらわれず、改良や維持、自由を守り、漸進的な変更や多様性、主体性を尊重し…。
 宇野先生は、読売新聞(文化)の8月30日のインタビューにも登場され、よく分りやすく、「保守主義の乱用に警鐘、再定義」と題し解説している。人間は間違える生き物だと自覚するが故に伝統や習慣を尊重する。伝統や習慣は固守すればよいのではなく、過去から受け継ぎながら更新し、未来へ引き渡すべき。その営みを進めるには個人の自発性が必要であり、それを許す自由な社会理念がなければならない、と述べておられる。
 この本著書の中で、分権と集権、地方と大都市との関係を「保守主義」から紹介したり論じた部分がいくつかあるので、そのところを引用する(若干の付記略記をした)。
―「一国の文化が栄えるためには、国民は統一され過ぎても、分裂し過ぎてもいけない。」(「文化の定義のための覚書」)
 このように説くエリオットは(1888―1965)は、集団のみならず、それぞれの地域が独特な文化を保持することが重要であると考えた。(第2章74頁)
―ハイエク(1899―1992)の思想の本質は人間の知の有限性やローカル性を重視する懐疑主義であり、多様性や選択の自由を重視する自由主義である。(同章94頁)
―大平正芳(1910―1980)やそれを支えた香山健一の場合、背景にあった「日本型多元主義」の思想が重要である。これは職場、家族、地域といった集団の役割を重視するものであり、国家主義を抑制し、分権的な社会をモデルとするものである。(第4章187頁)
―社会も人間性も複雑である。そうだとすれば単純な原理に基づく単純な政府は、ただそれだけでも問題がある。「人間性は込み入っており、社会の目的は可能な限り最大級に複雑多岐です。(中略)単純な政府とは、精一杯悪くは言わないにしても根本的に欠陥があるものです。(エドマンド・バーク(1729―1797)「省察」)

 さらに宇野先生は山本一郎氏との対談(ニューズウィーク2016.8.5)において、次のように述べられる。
 「大都市を中心に国際経済の中で勝ち抜いて行くというモデルでいくのか、それとも地方を復活させて成長させるかというのは、路線対立としてあっていいと思います。」
 「どちらか(拙注―都市と地方、富裕層と貧困層などの対立軸のことか)を捨てるのはムリだと思いますが、比重をどちらに置くかという選択肢は重要だと思います。」
 「全てを残すことはもうムリですからね。だからあえて選ばなければいけない。その何を選ぶかということが、前に進む原動力にもなるわけです。だからある意味では、保守主義が社会の推進力になる、変な時代とも言えるかもしれません。」
 「それが今や、保守政治家とされる人達はそのほとんどが東京生まれ東京育ち。自分の選挙区ともほとんど繋がりがなくて、その地域を守りたいと心から思っているのか、疑問に思うことがあります。なんだか知らないけど、この地域を守ってくれているんだ。共同体を守っているんだと思える人がいなくなっていますよね。」以上。

(2016.12.25 記)

(変化か変革か)
 世の中だんだんに変っているように思え、また実際も変ってきているのは確かだが、これはさまざまな力で自然に変ったからそうなったのか、あるいは特別の目的をもって変えようとしたからそのようになったのか。なぜこのようなことを思ったかである。ことさら突然の急激な変革によって世の中を変えた結果が果してどうであったかという反省なのである。今夜久し振りでテレビを見、ロシアのオーケストラの演奏を見、そこからロシアの文学のことに連想がゆき、さらに過去のロシアという国の文化のことから政治全般に連想がつながって、そのような気持を漠然と抱いたからである。
 良きものの喪失と悪徳の発生。これは「保守」の発想である、危う危う。

(2016.9.18 記)

(たのしい方言―おもいでな)
 読売新聞の日曜版には、わが愛する野球漫画「猫ピッチャー」が掲載されているのだが、その隣には、英語のチャンク集のクイズや英語学習の一言ポイントなどがいつも載っている。
 今週(2016.12.25)からは、漫画の方は幸いつづいているが、この英語レッスンは終了した。「ポケモンといっしょにおぼえよう!たのしい方言」の新シリーズが開始したらしい。英語版が終ってしまったのは残念だが、今週この第一回の方言クイズは三人(?)の代表的な(?)ポケモンが登場する次のようなものである。
 質問はQ1ピカチュウ「楽しい(福井県)」、Q2モクロー「とても(北海道)」、Q3ニャビー「ありがとう(大阪府)」である。これに対して答えの方の選択肢は以下のように、A1「おーきに」、A2「おもいでな」、A3「なまら」であり、三問の難易度に差がある。
 このイの一番に福井県の方言をピカチュウ君が設問しているのはとても嬉しいことである。
 方言をあらかじめ知っていない場合には、「とても」―「おもいでな」、「なまら」―「楽しい」となって、福井県と北海道の方言の意味を互いに相違えるかもしれないな。

(2016.12.25 記)