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イッセイエッセイ

1184号 高齢化社会に向けた思考実験

2016年09月08日(木)

 高度成長期に高齢化を迎えていた父母の時代の人たちは、自分たちがなぜ80歳も90歳にも長生きしているのかについては、予めわからず予想外のことであったろう。そのためと言ってはなんだが、長生きした人生の時間に対して十分な準備をすることなく、そのまま七十、八十歳を過ぎたのではないだろうか。
 戦争が終り、さらに後の団塊の世代にあっては、ライフスタイルの様相はもう一つ異なっているはずだ。しかしこの世代に至っても、青年の頃から自分たちの長い一生をある程度描いて生活設計してきたとは見えず、なお前世代の影をいくらかずつ引きずっているように見える。
 しかし、これから続く世代の人たちが徐々にライフスタイルを変え、年齢を重ねても社会状況に応じた生産的な行動がとれるかどうかは大事な問題である。
 高齢者(この言葉を便宜使うが)は、雇用市場への新規参入者である二十代に比べて元気さで劣るかもしれない。しかし熟練度(経験や技能など)において、ひけをとるどころか遥かに立派にやれる人たちが少なくないであろう。健康不安というものがあるかもしれないが、これは体を動かしたり働いたりすることと表裏の関係であり、バランスのとれた合理的なスタイルがいるのである。
 働く人たちの数が減少し、しかも人はいるようでいていないのが世の中であるから、だんだんライフサイクルが長くならざるをえない時代なのである。
 AIや最先端の情報分野など若年世代にふさわしいビジネスを全て任せようとする企業もあるようであり、老若互いに年齢ごとの得意分野をはっきりさせた方がよいのかもしれない。
 70歳や75歳までを働く人だと観念を常識化することになれば、支える人たちと支えられる高齢者との比率は、安定的な騎馬戦型に復帰し、決して悲観的な数字にはならなくなるのである。
 人の一生も、子供期から青年期、壮・熟年期、老年期とつづき、生涯が単に遊、学、働、楽、休というように順序だって、いわば一週間の歌のごとくは決して営まれることなく、混合し、弾力化してくるのである。

(2016.8.28 記)