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イッセイエッセイ

1176号 夏の日―土、草、田舎、都会

2016年08月07日(日)

 今日もこの夏一番の猛暑、窓の朝顔は繁り過ぎて西窓の部屋が暗くなり、電気を点けて本を読んでいる。朝顔は一、二週前に紅紫色の花をつけるばかりであったが、ここ数日来は青紫色の花を棚の南側の方に付け初め、新しい趣きをさらに加えている。
 夏の日は子供の頃の想い出が重なって、この歳になっても想像が広く遠くに飛んでいくことを自覚する。この季節のもつ特別の力が人間をそうさせるのであろう。
 いまちょうど随筆を読んでいる(「日本近代随筆選集2大地の声」岩波文庫2016年5月)。
 この季節の気持に一番ふさわしい随筆としては、自分としては佐藤春夫の「イナゴの大旅行」という中学校の国語の教科書に出ていた短篇を挙げることができよう。筋書きは略すが、というよりあまり憶えていないのだが、開襟シャツ、パナマ帽、基隆キールンなどといった夏らしい台湾の地名、そして蝗など、地図でしか自分の住んでいる土地以外のことを知らない子供の心にとっては、イナゴの大冒険はロマンにみちた世界であった。いかにも夏らしい話しだと勝手に季節を決める。
 この手元の文庫本の随筆選には、佐藤春夫の「僕の鼻眼鏡」(昭和7年)というのも入っているが、格別面白いものではなく、別の作品を入れて欲しかったと思う。
 「燕」(大正14年 川端康成)は以前に読んだ。NHKのラジオ番組によると(大村彦次郎の解説)、川端さんは葬儀の仕切り役の名人であったということである。この「燕」の話しとは何の関係もない。
 「火に追われて」(大正13年 岡本綺堂)が入っているが、この辺りは綺堂自身の随筆の中で読んだ気がするので飛ばしてしまう。捕物帖は綺堂のものが第一等であり、野村胡堂の平次の方は映画としてなら一級かと思う。
 「李朝夫人」(昭和31年 室生犀星)は、白磁の焼物を買うときの話しである。2万円を超える器は戦後間もなくの当時としてはかなりの買い物である。内輪話しとしては格別、随筆としてはそんなに趣きのあるものではない。
 「夏炉冬扇」(昭和22年 中川一政)は、戦争がすんだ・・・のを素直に喜んでいる画家の心境である(傍点小生)。
 「夏」(昭和10年 中原中也)は夏と聞くと旅愁が湧いて来る、という噴囲気を出している詩人の短文であり、彼の詩とは全く無関係な関係にある雑文と見ると奇妙な感想を持つことになる。
 「庭樹」(昭和16年 鏑木清方)は、日本画家の清方さんが住いをあちこち変えながらその都度親しんだ庭の樹木に対する愛惜を描いた文章である。「庭樹に栄あれ」と結んでおられる。
 「人がこの世に生まれて来て一生の伴侶とするものは、あながち人間同士の間がらだけでなく、書物もそうなら、山河、住家、それに伴う草木のたぐいまでどうかすると親しみ人に超ゆることもあろう。…」(書画骨董よりも身の周りの自然を愛する気持をのべている。)
 「少しの易さを願ってとどのつまりは大きな面倒の素となる、世間にはこれによく似たことがいくらもある。いつもそのあやまちを繰り返して悔いぬのではないが、あたって見てまたかと自ら苦笑する。…」(植木の配置の仕方や家の造りを中途半端にしたことの反省をのべている。)
 「草とり」(大正2年 「みみずのたはこと」所収 徳富蘆花)に出てくる話しは、農家の雑草に対する奮戦の話しであり、機材や薬剤のある今日ではほとんど想像できない風景である。しかし、これは現代の中山間地域の鳥獣害問題に置き換えると全く現代的であり、さらに切実感はそれを超えており、親近感が生まれる。
 冒頭は「六、七、八、九の月は、農家は草との合戦である。自然主義の天は一切のものを生じ、一切の強いものを育てる。うっちゃって置けば、比較的脆弱ぜいじゃくな五穀蔬菜そさいは、野草にふさがれてしまう。」
 「老人、子供、大抵たいていの病人はもとより、手のあるものは火斗じゅうのうでも使いたい程、畑の草、田の草は猛烈に攻め寄する。飯焚めしたく時間を惜んでもちを食い、茶もおちおち飲んで居られぬ程、自然は休戦の息つく間も与えて呉れぬ。」
 「ただたんそこらの畑をもつ美的百姓でも、夏秋ははげしく草に攻められる。起きぬけに顔も洗わずに露蹴散けちらして草をとる。日の傾いた夕蔭ゆうかげにとる。取りきれないで、日中にもとる。やっと綺麗になったかと思うと、最早もはや一方では生えて居る。」
 以下、いろいろと面白いといっては語弊があるが、もう現代では忘れてしまったような人間の除草器械くさとりきかい化と、農村の様子と草取りの厳しさと気分が描かれてきて、最終はこう結んである。
 「草を除ろうよ。草を除ろうよ。」
 「都市情景」(大正15年 谷崎潤一郎)は、随筆として楽しむよりは大都市と地方の問題について、約100年前の感覚を味わうのに好都合な材料を提供してくれる。
 「私は東京の日本橋に生まれた人間で、三十歳になるまでは下町を離れたことはなかった。その時分、近県の田舎へ避暑とか避寒とかに出かけることもないではなかったが、十日もするとすぐに東京が恋しくなって舞い戻って来たものである。当時の停車場は元の汐留しおどめの新橋駅で、汽車から降りると『ああ東京はやっぱりいいな』と、ほっ・・としながらあの駅頭の石段に立って、賑やかな広場の人通りを見渡す。そして駅前の電車に乗ると、乗合いの女の風俗がず第一に眼を喜ばせ、都会に帰ってきたという感じを、しみじみ味わわせるのであった。」
 ここには東京、都会、田舎といったキーワードが現われており、恋しい、東京はいいな、ほっとする、賑やか、帰ってきた、しみじみ等々の感激の言葉が登場する。さて、現代の東京の人たちは果してこんな気持を感じるのであろうか。なお、上記は第一次大戦前のことを谷崎潤一郎が過去として回想している記述なのである。
 「自分が自分の故郷である東京が嫌いになったのは、そういう静かさがなくなったからだというのではない。根岸の里にほととぎすを聞き、目黒の不動で筍飯たけのこめしをたべた昔が、いたずらに恋しいというのでもない。けれども今の東京にはその古いものに代るべき新しい情趣がないように思う。総じて都会というものは、余り大きくなり過ぎると、雑然としてまとまった感じがなくなってしまう。道頓堀どうとんぼりの芝居見物、心斎橋のそぞろ歩き―といったような中心点が、今の東京にはないのである。そしてそういう大阪も、『大大阪』となるにつれて、だんだん東京に似て来るであろう。」
 東京は古いものに代る新しい情緒がない、都市も大きくなり過ぎて中心がなく雑然としている、という不満である。さて、今の東京や大阪は、更に第二次大戦やさまざまなことを経て、谷崎が見ると仰天するような風景を眼前に展開することになるが、誰か彼のように感じている人たちが大都市にいるのだろうか。
 「明るくて、賑やかで、―空は青々と晴れていて、往来にはきらびやかな人通りがありながら、しかも絵のように静かな街―人口はせいぜい三、四十万から百万ぐらいまでの街―そういう街を私は好む。広さでいえば京都か神戸ぐらいなところが一番いい。私はあまり旅行家ではないから、くわしいことは知らないのだが、日本のうちでは畿内から中国方面にかけて、そういう街が多いような気がするのである。」
 なかなか贅沢な条件である。谷崎の好みは日本を離れて中国の北京や蘇州を、典雅な街の趣きあり、と感じてそのことも述べているが、以上のすべてのものは、日本では戦災、中国では大改革によって全て失われてしまったと見なければならない。
 こんなことを書いている間に陽はどんどん中天をすぎて、三時近くとなり、西窓から射し込みだしたが、さいわい朝顔のよく育った大きい葉によって日射しが斑らに机上に映るのみである。しかし肝心な刻になると暑さで葉の茂りが弱まって、午前中ほど元気がないのは困りものである。それでも一度しかないこの夏のこの日の一刻を日の陰りとして造形してくれるのは、清方さんではないがうれしいことである。
 「この先はまたどういう世の中になるかわからないが、今でこそ私たちでも機があれば小さくとも自分の土、自分の家をもつことも出来るけれど、それでも都会で生活するものは田舎と違って先祖代々の土の上に一生を送るということはめったに望めない。人は元より庭樹でも、幾代にわたって同じ土に深く根を下すことはそうたんとはないことであろう。」(「庭樹」から)

(2016.8.6 広島の日・リオの日 記)