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イッセイエッセイ

1171号 漢文の訓読と漢語の発音

2016年07月08日(金)

 古典漢文の訓読においては日本語とは語順が違うことから、いわゆる「返り点」をどう付するのか(読み方)が学習上の要点となる。読み難い漢文を白文のままに出題されて、解読に閉口した記憶は誰にもあると思う。
 なんとか合理的な構文解明と少しでも楽な読解法がないものかと思うのだが、最近では本屋の店頭に省エネ型の最強攻略本も出ていて便利になりつつあるようだ。しかしそうはいっても、漢文を読むことは古来よりさだめし労力を要した修業であったろうから、いわんや漢字離れの著しい現代においては学習はなおのこと面倒至極のこととなろう。
 以前から疑問に思ったことを記すならば、これ即ち現代中国語(たとえば新聞記事)に対し返り点を打って日本語として読み進めるような迂遠な話は聞かないし、その逆に論語や王安石の漢文を中国語のままで一挙に読み下す話も知らない。要するに学習上において、漢文と中国語は両者分離している世界なのである。
 最近そんなことに関心が向いて、現代中国語の初歩文法とその音韻の成りたちの様子を少しく調べてみたのである。中国語は印欧語に比較してさらに文法が融通無碍であり、一つの漢字が前置詞になったり動詞になったりして、孫悟空のように自由自在である。したがって、ある単語が一見では動詞なのか形容詞なのか見分けがつかず、品詞に厳密性がみられないところがある(英語にもあるが)。また文法の規則に一貫性が感じられないところがあり、正則文法も出来上っていないのでは、というあたりが現段階での素人的感想である(なおこの考えはおそらく正しくないのだろうと思うのだが、ぜひ修正できる知識を得たいとねがう)。

しかし一々の漢字は厳然として1つの音を持ち、固く強い自己主張をするのが漢字に対する印象であり、こうしたタイプの言語と文字の性質であるからして、この言語が果して微妙な表現、柔軟な言いまわしの展開に向いているのかどうか疑問に思ってしまい、江戸時代の宣長先生の苦労と気持はわからんでもないのである。

 漢文学習に係わる具体例の話として、たとえば文章中に漢字が文字で記されていても、漢文訓読の際にはその一文字を読まないものが幾つかある。而、焉、矣、於、于、乎などがそれである。
 これらは講学上「置き字」と称され、文章のつながり(順・逆の接続など)、断言や感嘆などニュアンスの表明、あるいは前置詞的機能などの働きがあるようだ。いささかも「無用の短物」ではないわけである。
 しかし漢字学習上は、その一字一字にはあまり目が届かないために(関心がそこに行っては逆にこまる?)、おそらく生徒は文章読解だけに熱中すると、学習上において何となく不可解な気持を抱いたままでいるにちがいない。当時の支那の文人たちが文章の調子を出すために、これらの漢字を文章中に記すのみで音も無く飛ばし読んだのか、日本語の「候」のようなものなのか等と誤解するかもしれない。
 しかしこれら個別に「置き字」を中日辞典(講談社版)で漢字として当ってみると、あたり前ながら中国語では音は歴然としてある。また古語としての用例が多いものの、少なからず現代語としても用いられており、以下に記すようなことがわかるのである。
 もっともこれらの文字を省略しても、現代中国語の口語文としては通じるような気もする(中国人に省略が可能なのか尋ねてみないと正確な所はわからないが)。なかには日本語における「於」のように、現在でもチラシやポスターに使われ「おいて」、「おける」などと読まれている文字も、中国語辞書では発音表示がwūまたはyū姓に用うとあるのみで、この「於」の用例が全く載っていないような漢字もある。一方で、「焉」のように字面から見てほとんど死語かと思いきや、現代でも中国語としてれっきとして案外使われている漢字もある。

【而】 ér
 (1)接続詞―並列関係の形容詞・動詞あるいは句・節、などを接続する。
  ①並列あるいは累加関係を表す。
   (cháng )(ér)(kōng)(de)(wén)(zhāng) 長くて内容のない文章
  ②継起関係を表す。   ()(ér)(dài)(zhī) これに取って代わる
  ③相反する語句をつなぎ、これに代わる逆接を表す。
   (rén)(xiǎo)(ér)(zhì)(dài) 体は小柄だが志は大きい
   ()(měi)(ér)(jià )(lián) 質は良いが値段は安い(成語)
 (2)接続詞―相反する内容の主語と述語の間に置き、逆接を表す。
   (xué)(sheng)(ér)()(hǎo)(hāo)(r)(xué)()(shì)()(háng)(de) 学生なのに、まじめに勉強しないなんて駄目だ
 (3)接続詞―目的・原因・根拠・方法・状態などを表す語句を接続する。
   (huā)(cǎo)(yīn)(quē)(shuǐ)(ér)(gān)() 花が、水を切らしたために枯れてしまった
   (bàn)()(ér)(fèi) 中途でやめる(成語)
   (kǎn)(kǎn)(ér)(tán) 臆することなく堂々と語る
 (4)接続詞―…まで、…へ。
   (yóu)(xià)(ér)(qiū) 夏から秋まで
   (cóng)(xià)(ér)(shǎng) 下から上へ
   (tái)(fēng)(yóu)(nán)(ér)(běi)(xiàng)()(běn)(fāng)(xiàng)(jiē)(jìn) 台風は、南から北へ日本の方へ接近している
 (5)(ér)(qiě)(特別な熟語として)
   ()(shēng)(yōu)(měi)(ér)(qiě)(dòng)(tīng) 歌声は美しいうえに感動的である

【焉】 yān
 (1)<書き言葉>―ここ(これ)に、そこ(それ)に。
   (xīn)()(zài)(yān) 心ここにあらず
   ()(yān)()(chá) それに慣れてしまい気がつかない
 (2)代詞―どこに、どうして。
   (zhī)(qíng)(yān)(néng)()(bào) 事情を知りながら、知らせずにはおかれるか
   ()()()(xué)(yān)()()() 虎穴に入らずんば虎子を得ず
 (3)助詞―文末に置き、語尾を強める。
   (yǒu)(hòu)(wàng)(yān) 大いに期待するものである

 この「焉」の漢字を漢文学習において、文末で意見を添える終助詞の働きとのみ教えたとしたら、上記(3)の働きのことのみを言及したことになる。

【矣】 yǐ
 (1)<古語・助詞>―文末に用いて完了あるいは過去を表す。
   (huǐ)(zhī)(wǎn)() 後悔しても遅いのだ
 (2)<古語・助詞>―感嘆の語気を表す。
   (dài)()(zāi) 大いなるかな

【於】 wū,yū
 姓にしか使用例はない。なお、日本語での漢字の訓読みは「おきて、おいて」

【于】 yú
 (1)介詞―動作のなされる時間、場所を導く。…に、…で。
   (běn)(shū)(chū)(bǎn)()(liǎng)(nián)(qián) 本書は二年前に出版された
 (2)介詞―動作の対象を導く。…に、…にとって、…に対して。
   (jià)(huò)()(rén) 災いを他人に転嫁する
   (mǎn)()()(xiàn)(zhuàng) 現状に満足する
 (3)介詞―動作の起点を導く。…から、…より。
   (qīng)(chū)()(lán)(ér)(shèng)()(lán) 青は藍より出でて、藍より青し
 (4)介詞―受動を表す。…される。
   (jiàn )(xiào)()(rén) 人に笑われる
 (5)介詞―形容詞または動詞の後に置き、方面・原因・目的を導く。…に等。
   ()()(zhù)(rén) 喜んで人を助ける
 (6)介詞―動作の向かう方向・目標を導く。…に。
   ()(hòu)()()(hán)(lěng) 気候は寒くなりつつある
 (7)介詞―比較を表す。…より。
   ()(zhèng)(měng)()() 苛政は、虎より恐ろし
 (8)()(shì) (熟語になっている接続詞)
   ()(jiě)(xiāo)(chú)(le )()(shì)(liǎng)(rén)(yòu)()(hǎo)()(chū) 誤解が解けて、二人は元どおり仲良くなった

【乎】 hū
 (1)<古語>文末に用いる
  ①疑問または反語を表す、口語の[(ma)][(ne)]に同じ。
   (Guǎn)(zhòng)(zhī)()()? 管仲は礼を知るや否や
   (yǒu)(péng)()(yuǎn)(fāng)(lái)()()()() 友あり遠方より来る、また楽しからずや
  ②推測を表す、口語の[(ba)]に同じ。
   (guó)(zhī)(jiāng )(wáng)()? 国の将来はないのであろうか
  ③命令・願望を表す、口語の[(ba)]に同じ。
   解説のみあり、用例は辞書になし
  ④感嘆を示す、口語の[(a)]に同じ。
   ()()(zhēng)(míng)()! 必ずや名を正さん
 (2)形容詞または副詞に付いて、状態を表す。
   (wēi)(wēi)()(ruò)(tài)(shān) 巍巍(ぎぎ)として泰山のごとし

 以上が「置き字」とされる漢字についての、辞書における解説と用例である。

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 日本語の歌、たとえば県民歌の出だし「長江は野に横たはり、青海は岬にうたふ」(三好達治)あるいは藤村の「小諸なる古城のほとり、雲白く遊子悲しむ」、を漢文に翻訳するとする。そうすると、唐詩の「渭城朝雨浥轻尘」(王維)とか「月落烏啼霜満天」(張維)などと、おそらく調子の差に余り変る所がないであろう。元の言葉が漢文に近いからである。
 この点はそう言ってしまえばそうなのだが、しかし漢字においてはその言葉の内容を凌駕する強固さをわれわれに迫り、詩体において角ばった構造に過ぎる感を与える。
 具体的に日本の歌が漢訳された例を見る。日本語の歴史的かな文字が柔らかいだけに漢文に変ると、字面上は歌っているよりも、論じているように見える。
   「兎追いしかの山」   ―赶着小白兔在那山上
   「つつがなきや友がき」―朋好友也都快乐康健
 漢字というものが一文字ごとに形と意味を有するので、ごつい感じがする。漢字を用いて表現のための言葉にしたときには、言葉としての組合せが余りに限られてしまうように感じる。これは何故だろうか(中国の当用漢字数は一万余あるらしいのだが)。
 もっとも、これらは言語と言語の間である程度いつも生じる問題であって、たとえば『いい日旅立ち』の歌の中で「あゝ、日本のどこかに私を待ってる人がいる」と彼女が唱ったのを
   Somewhere,someone
is waiting just for me…
とイギリスの歌手がカバーするとき、日本人の吾々としては、調子にややうるおいが足りないと感じるのと似ているかもしれない。

 脇道に外れてしまったので、話しを元の漢文の学習のことに戻したい。
 漢文を訓読する際の実感として言えることは、学習上は与えられた一文を所与のものとして、羅列されたように見える漢字群を、一字ずつ意味の通る順序に合理的に結びつける作業なのであり、できるだけ自然な形で配列し直すことが、即ち訓読となる。
 しかし、まったくそこで等閑視されている問題は、訓読対象になっている当の漢文が日本語としてどう読めるかに関心が集中するばかりで、背後にある中国語の文法が全体どういう構造と系統として作られているかについての知識に気持が及ばないことである。
 空海や阿倍仲麻呂のような日中両方を通貫した天才はさておき、古来からの日本の漢文習得の伝統からみて、漢文の訓読と中国語の直読は全く分裂してしまっている。本邦でも数多くの儒学者や漢文学者が輩出しながら、荻生徂徠などを例外として、中国語の文法や音声から直接学ぼうとした形跡があまり見当らないのは、不思議だということである。
 西洋から中国に来た宣教師たちは、日本人とは漢字に対する立場がちがうため、中国語から直接学ぶより他はなく、いま使われているピンインも彼らの発明によるローマ字表記に由来するらしい。
 したがって事の詮索はともかく、これからの漢文教育(学習)の方向は、国語学習の一環としての日本語の構造性と明確性を強めるために、まず漢字の力強さと漢文用法を学ぶ必要性があるのだが、より進歩した教育の仕方としては、現代中国語の知識(音声、文法、用法など)を基盤に持ちながら、漢字や漢文を教えることが効果的となるのではないかという点である。そしてもし国語教師が、中国語文法のあらまし(初歩レベルでまずは用が足せるか)を承知した上で、漢文の訓読教授を行ったとしたら、一字一句の芸当のような現在の和式翻訳法が、もっと見通しの良い土台の上に展開できるに相違ないのである。そして、漢字の行きつ戻りつをすることなく、一文を上から下へ流れるように、一気読解ができると理想といえる(訓読に熟達した結果そういうことができる、という伝統的な意味からではない。またこれは教師に対する注文である)。
 具体的には、まず第一に現代中国語(語)の音声を理解することにより、漢詩の朗読において音律の響きや押韻の実感を生徒にわからせることが可能なのが望ましい。またその次のレベルとして、語をそのまま直読して意味を取ったりあるいは朗読できること(教師から生徒が聞くこと)になれば、漢文の返り点による読み方式と併行して文章の理解と共感が深まるのではないだろうか。そして重要なことは、そもそもこうした事柄を超えて、漢字教育のパラダイムがシフトしていることの教師の認識なのである。
 余談ながら、世界地図帳で中国全土図を眺めたとき、ぎっしりつまったカタカナの中国全土の都市名に拒絶感が生じるのは、何とも残念なことである。中国語の音声をすこしでも学ぶと、その違和感が少なくなるのが実感なのである。

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 ところで、教師による(生徒ではない)中国語の初歩的な学習は、わが県で進めている「白川文字学」の行きづまりに対し、その壁を突破するための新しい接近法として役立つのではないか、そしてそこには幾つかの発展方向がありうる。
 白川文字学はあえて短絡的に申せば、漢字の歴史に沿った形態学であるが、先生が言ったように文字には必ず形や義のほかに声が伴ったはずであり、また相互に表裏の関連にあるはずである。古代の声は直接聞くことはできないので、現代に伝わっている音声から少しでも応援を借りる手がある。しかし白川文字学は音声学には重点が及んでいない。そこで、古代の音の世界を、現代中国語の音韻の力を借りて追及することが可能になるのではないか。

(注)例えば、一人称の我wǒが、なぜ「我」という漢字になっているのかという問題について―。

 白川文字学の説明では、意味内容の抽象的なものは、漢字の形態上、直接に象形的に表現ができないので、他の漢字の形を借りる(転利用する)ほかはないと言う。それに用いるに適切な漢字の手がかりは、形ではなく音声からしか由来しない(「桂東雑記Ⅳ」白川静23頁から)。すなわち「象形」とその組合せの「会意」の方式によっても表わすことのできぬ抽象的な意味の漢字、たとえば「我」などの代名詞は、音声から他の漢字を仮借して表現したとする。
 白川文字学では、「我は、もと(のこぎり)の象形字である」(拙注:鋸の字を借りたという意味)(「桂東雑記」拾遺巻177頁)と記されている。
 白川『常用字解』によれば、「我」という文字は字形だけでいうと象形的な「のこぎり」を意味する。すなわち、「我」の形は犠牲(いけにえ)をのこぎりで切ることを示し、「義」が羊を「我(のこぎり)」で切る形から知られるとする。しかしながら、これだけでは「自分のこと」を意味する音が、のこぎりを意味する鋸の漢字の音と、かつて類音だったかどうかは音声の世界(音を仮借した)としては不明のままである。残念なことに現在では鋸は鋨という文字に似ていないから、そんなに意味の通じる話しではないのである。さらに現在の锯(鋸)の音は、手元の中日辞典(講談社)では(チユウ)である。我のwo(ウオ)の音と全く別系統の音ではないにしても、やや遠い感じがする。
 なお調べてみる。
 「()」の類音として「我」の(つくり)を含む漢字に漢字の読みもガである「硪」があるが、この漢字だけは(地面を突き固める工具の意味)wòと発音する。一方、我の部首を含む「義」は現在では(イー)の音であり、加えて「羊」もyáng(イアン)であるから、義のyìも、wo(ウオ)とは一見縁のうすい音のように見える。数千年前に、我と義などの音が同音系だったかも謎である。
 ではさらに同じく、辞書の中で次の展開を行う。
 日本語において「我」と同じように「ガ」と発音されている現在の漢字を介して、これらの漢字グループが今の中国語音でどういう声をもっているかを調べる。
 そうするとwoの音をもつのは「我」のみである。日本語で「ガ」の(おん)をもつ同系統の俄、餓、蛾などはいずれもe()、蛾だけはyi()となっている。同じく「ガ」の牙、芽、雅の系統はほとんどya(イア)、ただし例外的な形で、瓦wa(ウア)、臥wo(ウオ)の音が孤立して存在する。

 このことから愚案を呈するならば、現在われわれが「ガ」と発音する日本の漢字の中には、wo(ウオ)の音が2文字(我、臥)あり、他に類音としてwa(ウア)の音が1文字(瓦)あることになる。又そのほかに近似音としてe()の音(アルファベット記号とは異なり、中国音ではeはエの音ではなくウに近い音)が8文字(俄、莪、哦、峨、娥、餓、鵝、蛾)、ya(イア)の音が同じく8文字(牙、讶、呀、芽、迓、砑、雅、衛)、ga()の音が1文字(伽)、hua(フア)の音が1文字(画)である。また注目すべきは、jia(チア)の音が2文字(「伽」の別音,「驾」)、yi()の音が1文字(「蛾」古語で(あり)を意味するときの異音)。(以上、拙注)

 上記のことから、日本語の我の「ガ」の音は、現代中国語として伝わる音は、おおむね「ワ行」―ワヰウヱヲの系統に属していると断定してもよさそうだ。そしてこれらの音は少しずつ違ってもすべて関連する仲間の音声ではないかという推測になる。
 とくに「ガ」とは全く音の系統が異なるように感じられる「伽」や「驾」の漢字(「加」を含む)が、上記注のようにjiaの声を持つことが不思議である。
 なお濁音の「ガ」のみではなく、清音の「カ」の音すなわち「加」などの漢字にまで調べを拡大すると、これらの音はjia(チア)であり、清音「カ」の音をもつ漢字には「j 無気音の子音チ」で始まる音系が他に多数見られる。
 最後にこれを全体として再度鳥瞰してみる。
 鋸(ju(チュウ))とこれを音で仮借したと白川文字学でいわれる我(wo(ウオ))との間には、現代の中国語の音からみて共通性がないと単純に考えるべきではなく、我(wo(ウオ))と鋸(ju(チュウ))の音はかなり離れて見えるが、日本語の「我(ガ)」と同音漢字には伽、驾(jia(チア))があり、類音の牙(ya(イア))系統の文字もあって、鋸と我は遠く結びついているという類推が成り立つ。さらに虫を意味する蛾はe()の音だが、yi()の異音を持っており、この音のときには古語としてアリ蟻を指すと説明されているから、(つくり)だけを取り出すと共通にある「我」の字をふくんだ「義」はyi()の声を持ち、「我」もかつてそうした音に近かったという想像も生まれる。
 しかし、何故に古代人が「自分のこと」を表すために、そのことについて自己を読ぶのに使っていた音が同じだとして、わざわざ「鋸」の文字を用いたかは不明であり、日本人の感覚からすると自己を示す漢字としてもっと使うべき適当な文字がなかったのかとも思う。
 もっとも今の我々が考える「我」が、古代においては、現代のように第一に尊重されるべき主体ではなく、案外つまらない存在とみられて鋸を代用したのか、それとも神との対峙において神事に用いられる鋸が我を表わす音としてふさわしいとして使われたのか、想像だけは広がる。さらに今の鋸の文字が、旁の居において「のこぎりの形」をさっぱり感じさせないのはなぜか、我の文字とどんな関係があるのか、どこかで簡体化されて変形したのか、白川文字学からは不明であり(調べが足らないか)疑問として残る。

(2016.6.下旬 記)