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イッセイエッセイ

1166号 歴史記述の内面と外形

2016年07月04日(月)

 ブルクハルトは、歴史家としてギリシア人の残した歴史書や悲喜劇などの記録をそのまま文面通りには信じないところがある。例えば次のように。
 ギリシア人の「虚言」癖について―
 ギリシア式の不誠実として、つとに後代のローマ人からも形容詞をつけて非難されている。(ブルクハルト『ギリシア文化史』第2巻468頁)
 ギリシア人は高慢なところがあり、手前味噌の議論をしがちであった。とくにアテナイ人の自慢については真に受けてはならないのである。(同462頁)
 ギリシア人の人生観については、同巻の巻末において訳者・新井靖一せいいち氏も以下のように後記している。
 「やはり近代世界には異質であり、近代人の思い及ばないような暗部のあることを忘れてはならない。われわれはここでも、ギリシア人の提供するさまざまな文献を正しく把握し、有効な資料として使用しうるためには、これをつねにギリシア人の眼で読み、なければならない、というブルクハルトの言葉を想い起こすべきであろう。」

(2016.6.6 記)

 最近、塩野さんの『ギリシア人の物語Ⅰ』を読んだ。
 その中の第3章「侵略者ペルシアに抗して」(102頁―276頁)は、ギリシアのポリス国家(アテネ、スパルタなど)が、覇権主義的な専制君主大国であったペルシアとの死闘を歴史に沿って描いている。
 ブルクハルトのように懐疑的ではなく、外面的に面白くわかりやすく描いているので、双方を読んでみると気持は落ち着きやすい。
 具体的には次のような戦いの場面である。紀元前490年夏のマラトン平原での合戦(アテネのミリティアデス、カリマコスvsダリウス王の将軍アルタフェルネス、ダティス)、それから十年のちの前480年8月のテルモピュレー地峡での戦いにおけるスパルタ軍の玉砕(スパルタ王のレオニダスvsクセルクセス王)、アルテミシオン岬の海戦(アテネのテミストクレス)につづく9月のサラミス湾の海戦(アテネのテミストクレスvsクセルクセス王)、翌年の前479年8月のプラタイアの平原での決戦(スパルタ王のパウサニアス、アテネのアリスティデスvsクセルクセス王の将軍マルドニウス)。
 これら十年あまりにわたる戦役は、ギリシアが最も輝いた時代の出来事であり、戦記風の小説として最も描くのに腕の見せどころといえるであろう。(「ギリシア人の物語Ⅰ」―民主制のはじまり 2015年12月 塩野七生 新潮社。全三巻(予定)の一巻が出たところであり、出典は第三巻に示される予定らしい。)
 物語は想像も加えながらすこぶる明快に且つ史実を再現する形で描かれているので、ブルクハルトの『文化史』を読むような難渋さはない。ギリシアのポリス連合のペルシアに対する戦いの場合で、読んで一番印象に残ったところは、やや通俗的になるかもしれないが、次の場面かと思う。
 「それでもペルシア王は、大軍勢の圧力によるテルモピュレーの強行突破の方針は変えなかった。翌日、オリエント風に仰々しく美麗な服を身にまとった特使を、ギリシア軍の本陣に派遣し、王からの次の勧告を伝えさせたのである。
 『武器を差し出せば、各自の国への自由な帰国を許す』
 ペルシア王の使節を引見したレオニダスの口から出た答えは、ただの一句だった。
 『モロン・ラベ(Molon Labe)―取りに来たらよかろう』
 後世、スパルタの戦士といえば返ってくる、山びこのようになる一句である。」(同178頁)
 このように『ギリシア人の物語』によれば、ラコニア式に教育されたスパルタの王は、敵方に対し最小限の必要な言語を発したということである。そしてスパルタ王レオニダスは三百人の戦士と共にテルモピュレーの峠で討ち死する。

(2016.6.15 記)