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イッセイエッセイ

1165号 逝きし故郷の風景―郷土の花

2016年07月04日(月)

 それぞれの時代に、―とは言っても本稿の話題からして明治以降から戦前まで辺りを時間幅の中に置くのが適当だろうけれども―日本人が「故郷」というものをどう考え、どのように個人として集団として故郷を想う精神を外に表現してきたかについては、今日(こんにち)の問題を考える際に、興味あるテーマとなる。
 下記の文章は、川端康成の随筆(「日本近代随筆選」2大地の声 岩波文庫 2016年5月)からのものであるが、これを読んだ際に今回のテーマに関連して面白く感じたので抜書きしたものである(傍線は小生)
 「<・・・>私は二、三年前は大阪の郊外の町―今は市に編入されましたが、その町の学校に勤めていました。日本で指折りの大きい紡績工場がありましてね、その工場の盆踊はちょっと名高いんです。工場の女工だけで踊るんですから一般には見せないのですが、私はその工場内の女工学校にも出て読み方を教えていたのです。ところで、いざ踊が始まろうと云う時になると、女工達が七組にも八組にも分れたじゃありませんか。おや、と私は思いましたがね、なにそうするはずですよ、組々で踊がちがうんです。例えば丹波の国と越後の国、その土地土地で盆踊の音頭の歌や踊り方の手振り足拍子がちがうでしょう。ですから銘々故郷の踊を踊るんです。色のちがった郷土の花を咲かせるんですね。その幾通りもの踊を眺めた時ほど、郷愁という気持をしみじみあじわったことはありませんでした。<・・・>」(「燕」大正14―1925年
「川端康成全集」26に収録と解説)

 ここにもう100年近く昔の女性たちの境遇と行動を見ることになる。そこには共通の労働がある一方、盆踊りというものが現実の生活と結びついていて、踊りの文化が、生まれ故郷ごとに別々のスタイルで彼女たちの身体に伝わっていたことになる。
 渡辺京二の『逝きし世の面影』(858号 歴史の行きつ戻りつ、863号
江戸時代の日本人、参照)
には、江戸末期に訪日した多くの外国人の眼をかりて、今の世には失せてしまった江戸の日本人の残影を、愛惜の念をもって描いている作品である。もっとも感想としては、大都市(江戸)とその近郊に限った情景であったろうから、本当の田舎は描かれておらず、そこにはもっと別の世界が見られたかもしれないとは思うのである。そう書いているうちに、以前にどこかで、この川端康成の随筆を読んだことがあるような妙な気分になった。実際そうなのかもしれないのである。
 扨て、これは随筆なのであるが、おそらく作家が東京近郊の(昔はそう近くの場所ではなかった)山間部の温泉に滞在中に、この村の小学校の若い教師と談じる機会があって、その時にその教師から聞いた話として書かれている。記録そのものではないが小説でもないので、ほとんど実際にあった話しとして考えてもよいであろう。
 またこの先生の話しとして、学校で子供たちに自由画を描かせると、ほとんどの子供たちが富士山を遠景に使い、また教師は気付かなかったのだが、村に飛来してきた燕の姿が絵のどこかに描かれるという。そしてこの盆踊りの件の話題に続いて、以下のような話題が出てくる。
 「ここへ来てから、その盆踊りを思い出しましてね。というのは、この辺の娘は、あの工場に行ってもどの踊りにも加われず、ぼんやり他人の故郷の花を眺めていなければならないのだろうな、と思ったのです。ところが、それはまちがいでした。第一この辺の娘は紡績女工になぞなりっこがないんです。みんな自分の家を持っていて、都会からは遠いし正直で善良です。しかし、どうしてみんなこう背が低いのでしょう。それはとにかくとして、一つには生活が楽なせいか、人間があまり刺戟しげきを欲しがらないですね。それが他所よそから来た者にこの村を淋しく感じさせます。この村には恋愛がないと云ってもよろしいくらいです。魚のように風儀が正しいんです。恋愛のない村。―だからさっき云ったような芸術がないのかもしれませんね。富士山だけがこの辺の芸術でしょう。<・・・>」
 こういう物の見方はいかにもどうしようもない田舎という先入観があるにしても、ここに登場させられた娘たちの時代はかなり昔のことである。大阪の出来事に関していえば、東京オリンピックの東洋の魔女達のそのまた母親の頃、関東の村に関しては数年前のNHK朝ドラ「花子とアン」の舞台と時代の頃だと推測できる。そして疑いなくこの大正期の日本の故郷の風景も、江戸のそれと同様再び永遠に失われてしまい郷愁となったといえる。
 とはいえ形はちがっていても、女性たちが都市に働きに出て行く問題や、一方で生活が豊かである、恋愛がない、といったさまざま今の世にも変らず通底する響きも感じる。
 さっき盆踊りのお国自慢競争のことをどこかで読んだような気がしたと書いたが、ここへ来てようやく想い出した。それは和田英の『富岡日記』に信州と長州の盆踊りお国自慢競争という類似のエピソードが出ているのである。(723号「十五才の冒険」―和田英『富岡日記』参照)
 大正やそれ以前の明治の時代には、こうした地方ごとの文化の違い、競い合う風潮が存在したということである。これは戦争前に限ったことではなく、戦後から昭和50年ごろまではカラオケはまだなく、歌をとっても民謡や軍歌であった。国の民謡を歌わされた想い出がある。世の中にはそのほか決まったような歌謡曲しかなく、これらを憶えていないと酒の余興にもならなかった時代がついこの前まであったのである。

(2016.6.25 記)