西川一誠後援会サイト

イッセイエッセイ詳細

イッセイエッセイ

1161号 ギリシア人の厭世と希望

2016年06月09日(木)

(ギリシア人が比較的に幸福であったとの誤解について)
 「生存の価値について、一般に行なわれている確固とした見解に到達しようという傾向とそのための能力は、個々の民族において昔から非常に異なった程度において存在していたことは疑いない。<…>古代ギリシア人のことに関しては、十八世紀におけるドイツ人文主義の偉大な興隆以来、はっきり認識していると信じられていた。すなわち、戦闘における彼らギリシア人たちの英雄的精神と市民精神、彼らの芸術と詩歌、彼らの美しい国土と気候が反映して現われた姿を見て、彼らは幸福なのだと思われたのである。シラーの詩『ギリシアの神々』は、推測された状態全体を一つの形象に総括したものであって、その魅力は今日に至るもなお力を失っていない。最低限に見積もって人々はこう信じていた、ペリクレスの時代のアテナイ人たちは年がら年じゅう歓喜のうちに生活していたにちがいない、とこれは、歴史判断の、かつて現われた最大の偽造の一つであり、この偽造が天真爛漫に、かつ説得力をもって横行しただけに、ますますもって人を惹き付けずにはいなかったのである。伝承された文書世界は、神話の時代から人間生活全般を嘆き、かつおとしめているのであるが、人々はこの文書世界全体の発している騒然たる抗議の声を聞き落したのであった。また、ギリシア国民の特有な生活に関しては、人々は、これを感銘を与える面からのみ取り上げ、その考察を通例カイロネイアの戦い(前394年)でもって終らせることで大いに満足したのであった。これではまるで、この民族をほとんど実質的壊滅にまで導いたそれ以後の二百年、しかもその原因はこの民族自身の行為によるものであったのだが、この二百年が、先行する世紀に結び付くものでなかったかのごとくである。」(ブルクハルト『ギリシア文化史』第2巻 第5章「ギリシア的生の総決算」501~502頁から)<傍線小生 以下同じ>

(ギリシア民族の素質とそのことによる結末について)
 「しかし、この一事だけは読者に疑ってもらいたくはない。すなわち、この民族においては素質と意志と運命は不可分の一全体を形づくっており、不幸は偶然のものではなかった、そしてあの凋落と消滅は、この民族の行った政治的かつ社会的生活の結果であったというこのことである。」(492頁)

(ギリシア人の厭世観と人生への蔑視について)
 「だが、ギリシア人の詩歌や散文において圧倒的な勢いでわれわれに立ち向ってくるのは、民衆のうちに根差す事実としての厭世観ペシミズムであって、しかもそれはまったく反省の結果生じたのではなく、ましてやそこには、われわれの世紀において行なわれたような、多方面にわたる理由付けなどは全然なされていなかった。むしろこの厭世観は、気分が原因になって、大抵はいたってぶっきらぼうに世の中に呼び出されるのである。個人としては思慮深さから世の中に満足しているような、あるいは少くとも無関心の風を装っていた人がどれほど多くいたのかは知る由もないが、しかし人々は、大方の悲嘆の合唱に調子を合わせることによって、自分の気持ちを紛らわすことができたのであった。そこで耳にされるのは、一貫して流れている人生蔑視の声である。人間は不幸に生まれ付いている、もともと世にいないこと、もしくは早くして死ぬことが最善である。」(524頁)

(神話の時代からつきまとう悲劇と悲嘆)
 「ギリシア人の思想によれば、英雄たちの最後の偉大なる世代の大部分はトロイア戦争において、また帰国の途次と、その後において命を失ったのであった、しかし暗澹たる運命はもっと昔の英雄神の苦難に満ちた行動にも、すでに久しい以前から付きまとっていたのであった彼らの神話全体は初めからこういう話でいっぱいなのであり、叙事詩がもろもろの動機や反省を述べる場合、それは決定的な厭世観ペシミズムの観点からなされているのである。時が経つにつれて悲劇はこのような基盤の上に、非道と呪詛じゅそと悲惨からなるあの精妙な建造物をいっそう高く打ち建てたのであろう。」(503頁)

(ギリシア人の名誉欲ピロテイミアと妬み、懊悩ケルトメインを与える嘲笑、罵倒ロイドリア、誹謗などについて)
 「ギリシアにおいて人間行動の有力な動機が数え上げられるたびごとに、名誉心テイメというものが現われないことは決してない。トゥキュディデスは、恐怖と利益と並べてこの名誉心を第一に挙げている。イソクラテスはこれを享楽と実利のあとにおいている。」(475頁)
 「今日のねたみは、どのみち決してそれをみずから認めてはならず、むしろありとあらゆる仮面を顔に着けていなければならないのであって、大抵は妬みの対象たる犠牲者に知れないところで働くのであるのに反して、ギリシア人の妬みは、そうすることができるとなるとたちまち、公然たる攻撃と嘲笑となって爆発したのであった。」(476頁)
 「こういうわけで、これ以外にも神話は妬む者とその犠牲者についての非常な悲惨な有様をなんとしばしば取り扱っていることであろう。」(505頁)

(ギリシア社会における嘲笑や個人攻撃の蔓延、その甘受について)
 「結局のところ、古喜劇と中期喜劇は何といっても嘲弄能力の稀有なる公的な発露であったのであり、さらにまたこの嘲弄能力は全アテナイを一年じゅうを通して支配していた。それは、規則正しい労働によって慰安的な力を得ようというのではなく、公的な事柄、すなわち、他人のことに絶えずかかずらっているという気風がアテナイ人のあいだにはびこっていたからである。喜劇よりも穏やかな嘲笑か、でなければもっと乱暴な嘲笑が交際全体を支配していたように思われる。次に、前四世紀の弁辞家たちをさらに取り上げることにするが、そうすると読者ははなはだしく乱暴な個人攻撃のただ中にいることになる。」(482頁)
(参考)ヘーゲルは『歴史哲学』の「ギリシア世界」の章において「こうして主観的な自立的自由が起り、個人は旧来の国家組織にそむいてまでも、一切を自分の良心の上に打ち立てようということになった。各人はそれぞれ自分の原理をいだくが、その自分の判断はまた最良のもので、是非とも実現さるべきものだということを確信することになる」として、クレイステネス、ミルティアデス、テミストクレス、アリスティデス、キモン、ペリクレスなどアテナイの代表的人物を挙げながら「彼らが一たび難事業を成し終えるや否や、必ずそこに嫉妬が生まれてくる。いいかえると、その特殊な才能に対して平等の感情が角をだす。<…>偉大な個人や、先頭に立って国政を左右するような人物を片っぱしからこきおろし、傷をつけるところの暴露家の手合(シュコパンテス)が、国民の間に現われて来る」として、主観的自由の堕落の状態を描く。(岩波文庫(中)151―152頁)

(不可避性をもった運命とねたみ)
 「総じて神話においては、主として運命と神々の妬みとが英雄神ヘロスのいろいろな巡り合わせについて分担しあっており、<…>運命と関連して何よりも強調されるものは、公正ではなくて、不可避性である。そしてここにおいてギリシア人に役立っているのは、もろもろの動機の湧き出る比類のない源泉たる神託である。未来をただ部分的に知ったことがかえって、その神託を伺った者の没落を早めていることがある。」(512頁)
(参考)再度、ヘーゲルの述べるところについて。
 ヘーゲルでは「ギリシア人の厭世観」というような表現はとっていないが、ギリシアの神々に関しては、「主観性の真の深みは、まだギリシア精神には把握されていない<…>この欠陥は、神々の上に純粋の主観性として全くの偶然性としてさらに運命ファートウムがその座を占めていることからもわかる。また人間が、その決意を自分で行なわずに、神託に頼るということの中にも見ることができる。すなわち、人間の主観性も神の主観性も共に、まだ無限な主観性として自分から絶対的な決断を下すまでには、なっていないのである。」(前掲146頁)
 「ギリシアの民主主義特有の性格として、その民主主義には神託が結びついている。元来、自発的な決意のためには、根のしっかりした意志の主観性が発達していることが必要であるが、ギリシア人はまだこの意志の力と強さを持たなかった。」(同153頁)
 ブルクハルトの難渋な表現に対して、以上のようなヘーゲル的な判り易さはやや曲者であり注意がいる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ここまでは神話とその声である叙事詩の中に表わされたギリシア人の厭世観の前史であったが、以下は歴史時代におけるギリシア人の思想についてである。
 ブルクハルトのこの問題への接近法についてであるが、ギリシア人の考え方をオリエントやエジプトのそれと対比したり、他の民族との影響関係がどうであったかを調べるといった方法をとる等については「まったく断念をしたい」という。このような一般的な考究ではなくて、問題とすべきは、「単に事実と報告の総合比較だけである」と述べる。そして以下のごとく、大胆に自身の視点を提示する。
 「人間は自分の幸不幸について、また自分の同胞、何よりもまず自分の国民同胞の幸不幸について実際どの程度発言力があるかという問題についても、ここでは決めないでおこう。通常の見解は、ある人が幸福であり、不幸であると考えているものが、現実においてもその人にとって幸福であり不幸なのだ、と言い張るであろう。この意味においてギリシア人をして語らせるほかはないであろう。」(518頁)

ギリシア人が当時、自分たちのことをどのように思っていたかを様々ありのまま語ればよいではないか、とブルクハルトは言っているのである。

(2016.5.28 記)

(個人化して傷つきやすかったギリシア人について)
 「われわれがここで特に相手にしているのは、極度におのれの苦悩を感じ、それを意識せずにはいられなかったような民族なのである。ギリシア人は、偉大なアジアの民族に見られる先天的諦念やあらゆる瞑想的静寂主義と、これ以上ないような完全な対照を示し、運命に向けてただ傷つきやすい面のみを差し出している。かくて運命は、ギリシア人を日々刻々その肉体だけでなく、魂をも傷つけることがありうるのである諸民族はその原初の時代から、しばしば文化がかなり高まった時代に至ってもなお種族として生活している。ところがギリシア人は他の民族よりも早い時代に個人としての人間になっていたのであり、そのことによって名誉と禍いを混合した形で持つことを避けがたいものとしたのである。」(518―519頁)
 「すでに叙事詩においてアキレウスとグラウコスの父たち(ペレウスとアンテノル)は、次のような訓戒を垂れて息子たちをトロイア城下の戦闘へ送り出している、“つねに先頭に立ち、他の者に後れをとるな”。ところで、これらの英雄神ヘロスを待ち構えているのは、ただ単に敵に対する闘いだけでなく、さらにまた仲間たちの嫉妬と、指揮者たちのあいだで早くも致命的になっている反目なのである。このあとに続いた時代にあっては、郷土においても大きな祭典地においても行なわれた競技がギリシア人の全世界を激動せしめ、勝利者たちの名声で満たしたが、その一方において競技に敗れたおびただしい数の者たちは、勝利者たちの幸福の総量よりもはるかに大きな総量の悲嘆を感じているのである。」(承前519頁)

(ギリシア人の徹底主義からくる破滅について)
 「人々はポリスの中にあって、またポリスのためにあれほど数々の苦難をなめさせられたのであったが、この、一にして一切であるポリスは、古来、外部から征服されたときには、単に略奪と屈辱にさらされただけでなく、ギリシアの戦時法規に従って破壊と成人男子の殺害、婦女子の売却という乱暴にさらされていたのである。実際後代になると、無数にあったギリシア諸都市のうち、残っていたのは廃墟だけであった。このためにどれほど多く悲嘆と憤激が呼び起こされずにいなかったであろうか!この上なく迫力に満ちて営まれていた生活のうち、残っているのはただ完全な破壊だけである!この国民を実体上一つの幻影となし、ついにはローマ人の手中に陥らしめたあのすべての党争と紊乱びんらんを考える際には、このことを心に留めてもらいたいのである。」(520頁)

(陰惨の中の知的楽観主義について)
 「無論、この地では選び抜かれた数多くの人々が、精神によって与えられうるかぎりの愉悦を、高貴な芸術と文学において、思索と探求において享受し、また彼らの人格の反映を通して他の人たちにも、彼らが理解しうる範囲でそれを伝えている。こういう能力の持ち主はギリシアにおいてはいわばつねに楽天的であった。すなわち、芸術家、詩人、思想家にとって、よしんばそれがどんなものであろうと、この世界に力強い創造物を引っ提げて立ち向かうことは、つねに骨折り甲斐のあることなのであった。これらの人たちが個人として現世の生活をどれほど陰惨なものと考えていたにせよ、彼らのエネルギーは、みずからの中に生きているものの自由にして偉大な形象を世界に産み出そうとする意欲を決して断念することはないのである。」(承前520頁)
 「厭世観ということが言われる場合、神々のことはほとんど言及されることがない、というのは、世界と人間を創造したのは神々ではなかったし、人間の運命ということになると“宿命”、運命の女神モイラの支配という古くからある中心的見解がそれにふさわしい位置を占めていたからである。」(525頁)

(ギリシア人の幸福感について)
 「われわれはまず幸福というのは消極的なものであり、苦痛というのは積極的なものだと知覚されていたというところから始めるのがよいであろう。」(529頁)
 このことを示す文献例(529頁―535頁)が示されている。
 ソポクレス「ミュシア人」断片―悩みを持たないものはいない。それをいちばんわずかしか持っていない者が幸福な者なのである。
 同「コロノスのオイディプス」―だが生まれたからには、来た所へ速やかに帰ってゆくのが次にいちばんよいことだ。
 ホメロス「イリアス」―ゼウスは人間の上にその誕生のおりに労苦を重い禍いとして課した。
 ヘシオドス「仕事と日々」―ゼウスはプロメテウスに欺かれた報復として、誰でもそれを初めは幸福と思うような禍いを送る。
 ヘロドトス「歴史」―地上の事柄は車輪のように回転する(クロイソス王がキュロス王に言う)。
 アンティポン(ソフィスト)―一切は卑小かつ脆弱であり、短い時間しか続かず、そのかわりに大きな悲嘆と混ざり合っている。
 アリストテレス―人間とは何か?それは弱さの真のしるしであり、刹那の餌食であり、偶然の玩具であり、転変常なき世の(運命の)姿であり、あるときは妬みに、あるときは災難に委ねられている。あとに残るのは粘液と胆汁だけである<この表現はストア派のローマ皇帝アウレリウスの「自省録」へ引きつがれているか―拙注>。
 メナンドロス(前四世紀後半の風俗喜劇作家)―動物のほうが人間よりも幸福であり、実のところもっと賢明である。
 ピンダロス(前五世紀前半 祝勝歌作者)―人生は所詮「影の夢」にすぎない。
 等々等々。

(歓喜とは遠いアテナイにおける日常について)
 「自分たちのこれから先の運命に疑いを懐いただけで自発的に死ぬ人たちがいたのであり、ギリシア人にあっては生命はもろもろの財宝の最高のものでは全然なかったということが何らかの点によって証明されるとすれば、それはまさにこれなのである。これと同時に、ギリシア人にとっても生への愛着が生まれつき具わっていて、大抵の人たちは、他の民族と同様に死を恐れていたことは、事改めて言うまでもないしかしこの恐怖は公然と嘲笑されたのであり、これと相対立する感情が絶えずまかり通っていたのであった。たとえば、ペリクレス時代には人々は絶えず歓喜に満ちた生活をしていたと言われるが、本当はそんなものはありはしないのであって、これについては、さしずめその弔辞におけるペリクレス自身の声に耳を傾けてみるのが有益であろうと思われる。彼の言葉によれば、日常かわらずに流れている気分は生真面目で、打ち沈んだリユペロンものである。そこでこの気分は競技や供犠や快い家の調度を日々楽しむことによって追い除けエクプレセインられねばならないというのであった。」(537―538頁)(トゥキュディデス『戦史』第2巻38節が原注に掲げられている。)
 やや後代のクレオパトラの死をはじめ、個々人のさまざまな自死の例、ポリスが絶望や捨て鉢の状態に至ったときの集団的な自決の例が沢山挙がっている。

(ギリシア人の老年に対する冷淡について)
 「現生の生活に対する悲嘆の中でまったく特別な位置を占めているのは、老年である。<…>いかなる影響にも左右されていない気分の場合には、何の遠慮もなく老年についての悲嘆がきわめて声高に発せられるのを耳にするのであって、戯曲においてもその声はしばしば、また隈なく滲み渡っている。<…>これは老年の負う苦難と、後代のギリシア人においては老年に対する尊敬の念が明らかに薄かったことから来ているそしてもう一つは青春時代に対する以上に高い評価である。」(539頁)
 「いかなる国民においても、この貴重な青春の境をできるだけ先へ延ばすために、ギリシア人ほどこの境界のことでいろいろ駆け引きをやっている国民はない。『少年パイス』、『若者メイラキオン』、『青年ネアニスコス』となったあとで、ようやく『成年男子アネル』と呼ぶ決心がつき、その次に『年長者プレズビユテス』があり、最後に『老人ゲロン』と続く。『成年男子』という呼び方に対しては、無論ほかにもっと丁重な表現として『アクマゾン』、すなわち最も精力的な年齢にある人、というのがあった。アリストテレスはこの年齢にある段階を、肉体的な点では三十歳から三十五歳までの年齢に、精神的な点ではさらに四十九歳の年齢にまで広げている。」(539―540頁)(プルタルコスの『倫理論集』、アリストテレスの『弁論術』第2巻第14章が原注として掲げられている。)
(拙注)アリストテレスにおける壮年期の年齢について。「弁論術」(岩波文庫1992年)の訳者・戸塚七郎氏は、次のような訳者注を付している。
 「プラトンは男盛りを、肉体的には二五歳から五五歳の三十年間、精神的には五〇歳としており(「国家」460e、540a)、アリストテレスとは開きが見られる。アリストテレスの数字は現実的基盤に立ったもので、理想的状態の国家を前提としたプラトンの数字とずれが生じるのは止むをえないところであろう」。
 なお、すでに以前のエッセイでも述べた田中美知太郎の論文においては、登場させている人物の年令を―確定が困難な者が多いことにもよるのだろうが―その人物の「アクメー」(最盛期40歳の頃の意か)が紀元前の何年頃という表現をとって、人物たちの前後関係を明らかにしている。
 「自殺は、それが逃避ではなく、(政治的)行動である場合にのみ正当とされる。自分のためだけに生きたり死んだりするのは恥だ。いよいよ祖国にとってもう希望がないとなったら、そのときには易々として死ねばよいのだ。」(564頁)
 ブルクハルトは、自殺の権利についての真に卓越した言辞として、スパルタ最後の王で全ギリシアの友軍とともにマケドニアに敗北を喫したクレオメネス三世の言葉を上記引用のようにとりあげている。
 「自発的死の権限は哲学者たちの生活における他のすべての自由の一部であって、それは時が経つうちに本格的に彼らの学問的体系のなかに取り入れられさえしている。逃亡の勧めを拒否し、裁判官たちを故意に立腹させることによって、ソクラテスは事実上自殺を遂げたのだ、ということは、クセノポンの著作(「ソクラテスの弁明」)においてきわめて明白に強調されている。」(567頁)
 しかし、ブルクハルトの解説に従って、自発的な死を選ぶギリシア人たちの実にさまざまな報告を読むとき、近代において考えられているようにソクラテスの死についても一人光輝く出来事であったとは見えなくなるのは、残念なことである。
 さらにこのようなギリシア人の死生観は、ローマへと受け継がれていく。
 「一連のストア学派の徒もしくはストア哲学の教えを奉ずる人たちも、自発的に彼らの生命を終えている(セネカ「神の摂理について」第6章)。マルクス・アウレリウスはおよそ死を熱望するに値するものと考えていた。しかも、彼を取り巻き、また彼が親愛の情をもって付き合っていた人たちのことをつらつら思ってみたうえでそう考えていたのである。」(『自省録』第9章3、第10章8が原注に付されている)
 この部分について、『自省録』(岩波文庫1956年 神谷美恵子訳)を見よ(エッセイ第431号「自省録」参照)。
 第9章3について―、
 「死を軽蔑するな。これもまた自然の欲するものの一つであるから歓迎せよ。<…>このことをよく考えぬいた人間にふさわしい態度は、死にたいして無関心であるのでもなく、烈しい気持をいだくのでもなく、侮辱するのでもなく、自然の働きの一つとしてこれを待つことである。<…>もし心惹かれるような一般向の処世訓が欲しいならば、なによりも君を死にたいして平気にしてくれるのは、君がいまに離れて行く周囲のものをながめ、また君の魂が今にもうかかわり合わずに済むようになる人びとの性質をながめることであろう。<…>なぜなら我々を人生に引き留め、我々をそこに繋いでおきうるものがあるとすれば、そのただ1つのものは、もし我々が自分と同じ信念の人びととともに生きることが許されていたら、という場合なのである。しかし君はもう知っている。人びととともに暮らすことの不調和がどんなに疲労をもたらすかを。<…>」
 第10章8について―、
 「善い人、慎み深い人、真実な人、思慮深い人、素直な人、心の大きい人、等の名称を人から貰ったら、他の名前を貰わぬように注意せよ。またもしこれらの名称を失うようなことがあったら、いそいでこれに立ち戻るがよい。<…>であるから以上の幾つかの名称の船に乗り込め。そしてもしその中に留まることができるならば留まれ、あたかもどこか極楽島にでも移り住んだ者のように。しかしもし君が難破しそうに感じ、頑張ることができなくなったならば、勇気を出してどこか優勢をとりもどせるような片隅へ行くか、またはきれいさっぱり人生から去って行くがよい。」

 そして、ブルクハルトは『ギリシア文化史』の第2巻(第五章 ギリシア的生の総決算)を、次のように古典古代の終焉とそれにつづく新しいキリスト教社会の到来を告げる文章をもって終えている。(なお、エッセイ第419号 ブルクハルト著『コンスタンティヌス大帝の時代』を参照)
 「哲学者の自殺のうちで最後期に属する有名なものとしては、犬儒学派の徒でペレグリヌス・プロテウスのそれである(AD168年)。彼はオリュムピアにおいて祭典の行なわれているあいだに火葬壇に上ってみずから焼け死んだ。<…>全般に広がっている堕落に対してそうでなくとも不平の声が充満し、また全世界に対する、神々や人間に対する嘲笑が聞かれたそういう世紀のことなのである。時はまさに、こういう社会と並んで別な社会が成長しようとしていた時代なのであった、そしてこの別な社会は同じように大きな死への熱意を無数の殉教の形で明るみへ出したが、しかしそれと同時に生の新しく高い目標にも直面していたのである。」(569頁 巻結)
 当時のギリシア半島は、ローマの属領となってもうすでに久しく(三世紀を経過している)、時代はローマの五賢帝の時代である。それは、この『ギリシア文化史』に頻繁に引用されている『対比列伝』や『倫理論集』の著者プルタルコス(AD1世紀後半~2世紀初頭)の時代よりやや後の時代のことであり、上述のマルクス・アウレリウス(AD121―180年)の時代である。
 さて、このプルタルコスの『倫理論集モラリア』中には、「食卓歓談集」という対話集がある。その第4巻4番「山より海の方が珍味が多いか」という対話の中において、
 「そこで『希望派』と呼ばれる哲学者たちは、希望を持つことこそ人生最大の眼目なりとし、希望がなく、したがってそれによって風味を添えられなければ、人生は耐えがたいものになろうと説いているが、それなら同様に、食欲を掻きたてるもの(海の産物の塩)は、もしそれがなかったら、どんな食べ物も味気なく、口に運ぶ気もしなくなるだろう」とある。(「食卓歓談集」柳沼重剛・編訳134頁1987年 岩波文庫)
 訳注では、プルタルコスの時代には、何かにつけて「希望」が話題にされ、好んで「希望」を口にする学者達を人々がそう呼んだのだろう、しかしそういう哲学者の一派が形成されていたわけではない―という趣旨のことが記されている。
 このように二千年近く前に「希望学」がさかんに話題にされていたことがうかがえるが、しかし時代は反対に絶望に覆われていたのではないかと思われる。

(2016.5.29 記)