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1158号 国土・都市・人心の「荒廃」について―原因としての「絶望」

2016年05月16日(月)

 ブルクハルトの『ギリシア文化史』第五巻(最終巻)には、ギリシアの「荒廃」という言葉が、国土の…、人心の…、都市の…という表現をとって、頻繁に出てくる箇所がある。
 ギリシア各都市が、繁栄から衰退へと坂を下りはじめ、ヘレニズム期、ローマ時代に転移し吸収されてゆく時代、ポリスの人倫の腐敗、人口の減少などの疲弊の様相を、「荒廃」という言葉を使って描写している。
 古代ギリシアに起きた国土や人口の衰亡現象は、遠い昔の別世界のことであるが、殷鑑遠きといえども、決して現代のわれわれにとって無関心事ではないのである。亡びてゆく時は何につけそんなものだろうと割り切れるわけのものではない。
 ギリシアの終末期は、強力なマケドニアやローマという外敵もさることながら、これらに対するポリス各国の無力と内輪もめの混乱を衰亡原因として伴っている。
 現代においても、さまざまな外圧や世界的な政治混迷、身近に感じる内なる弱体化などに注意を向けるときに、何か参考になる点が有りはしないかという問題意識がどうしても起る。
 第五巻は、第九章<ギリシア的人間とその時代的発展>後半部を収めているが、最終第6節<ヘレニズム期の人間>中の<ピリッポス五世とアンティオコス三世の対ローマ戦―全般にわたる腐敗、国民人口の減少とその真の原因―全般にわたる国土荒廃>の項が、この種の問題を扱っている。
 「さて、ここでわれわれは、ギリシア国民の量的減少・・・・・・・・・・・について述べねばならない。これは、往々にして見落されるか、もしくはかならずしも十分に強調されることのなかった事実であるが、しかしこの事実は異常な程度に存在していたのである。」(第5巻284頁)(傍線小生、以下同じ)
 「この減少の根底にある全般的な事実を尋ねてみると、何よりもまず、これについてポリュビオスの挙げている次のような事情が現われてくる。すなわち、大言壮語や貪欲や享楽癖に陥ってしまっていた人々はもう結婚しようとはしなかったし、また結婚したとしても、子供は一人か、せいぜいのところ二人しか持とうとはしなかった、これは、子供を贅沢に育て、たっぷり遺産を残してやれるためであったこの不幸は短期間のうちに知らぬ間に非常に大きくなってしまっていたので、何か戦争でも起るとか、病気に見舞れるとかするとたちまちその家を荒廃させることになった。」(第五巻同頁)
 大言壮語の意味はやや分かりにくいので扨措くとしても、親の世代における筆者のいう「享楽」、「贅沢に育て」、「この不幸は短期間のうちに知らぬ間に大きくなって」など、現代のわれわれの社会と何か類似したような調子は、心の裡に或る響きをもたらす。
 しかしブルクハルトは、ポリュビオス(『歴史』)の考えを上記のように引用しながらも、そのままには受け入れることはしない。
 「それゆえ、ものの考え方を変えるか、でなければ・・・・・、法律(原注:テーバイ市の法律)によって生まれた子の養育を命令する必要があったのである。しかしながらわれわれは、当時本当にいまだこのような点で特に人々を左右していたのが享楽癖であったかどうか疑問を持ちたいのである。いやむしろそれは絶望ではなかったのかと思いたい。というのもそのような絶望の生ずる理由があったからである。」(同頁)
 いやそうではないと言っている。人々の贅沢、なまけ癖ではなく、深刻な「絶望」が支配していたのではないか、とブルクハルトは推測するのである。
 「不幸な両親は、土地の分配と債務免除が日常茶飯事のこととなっていた時代において、将来子供たちを待ちうけているものが何であるかをあまりによく知っていたのである。だがポリスは、有産階級からその財産を取り上げれば裕福になれると信じていたので、こういうことをやっていればますます貧乏になるどころか、ついには命までが絶えてしまうにちがいないという点に気づいたときにはもう遅すぎたのであった。」(285頁)
 これはギリシアのことであるから、もちろん市民としての有産階級の問題であり、居留民、奴隷、貧民を含めた話しではないようだが、ポリスの社会的経費を課せられる人たちにとって、後世代のために何かを為そう遺そうとしても、その負担があまりに大になり、将来が見込薄の状態となったことを人口減少の真の原因とみなしているのである。
 この絶望の問題のブルクハルト的理解は、次のようなことだとわかる。つまり人間は他の動物とは違い、子供たちの幸せが将来に期待できないと考えるとき、親として多く子を生んだり育てたりすることは子供にとって悲惨と考えてしまい、社会的に沢山の子供が必要だといった意欲を持つことはないということのようだ。
 また当時、別の原因をあげるクルティウスなどの人たちもいたようだが、この見解もブルクハルトはとらない。「内乱」が問題だと加える。
 「さらに量的減少の原因として、後継者たち(拙注―アレクサンダー大王没後の後継者たちのことだと読める)の国土へ住民が移住したこと、ローマ人との戦争、そしてますます増大してゆく海賊の襲来を指摘するのが常である。しかしこういったことはすべて本質的なものではない。もしギリシア人が同胞たるギリシア人の手から逃れる必要がなかったとしたら、シリア、エジプト等々への移住があれほどの規模で起ることはまったくなかったであろう。さらに言えば、ローマとの戦争、ギリシア本土におけるローマ人による内戦は、短期間つづいただけであった。」(同頁)
 「主要原因はむしろ、住民の減少が多くの神託所の消滅の誘因となったとして、プルタルコスが付随的に挙げている原因、すなわち、これ以前に起っている内乱がそれである。プルタルコスの時代にはギリシア全域をもってしてもほとんど三千の重装歩兵も供給することができなかったと思われる。」(286頁)
 有産者の定期的殺戮によって生ずる絶え間ない国内紛争と、都市相互間の侵略しあいカタドロマイが、まさにいちどきに起っていたのであった。このことによるだけでもまさに根底において弱体化が起っていたが、さらに奴隷と家畜が奪いさられたことによって、文化は止めを刺されることになった。今はもう、奴隷や家畜を買い入れて補充するに十分な資力がなく、人々はもはや自分で働こうともしなかったし、また働くこともできなかった。また、疲弊しきっていたので、土地に新しく自由人を移住させることもできなかった。こういうわけで、国土の荒廃を放置することによって当然考えられる悪循環によって、人々はそれこそ完全に貧困化したのであった。それゆえ、アレクサンドロス大王が死んで少し経つと早くも、オペラスとそのギリシア人の配下のような非常な略奪好きの連中はリビアとカルタゴに矛先を向けたのであるが、それは、ギリシア全土が絶え間ない戦争のために無力で見るかげもない有様となっていたからであった。」(286頁)
 「次に、諸方の都市の破壊と荒廃であるが、この場合、これらの都市が頻々として地方に起っていた地震の犠牲となっていたという事情は考慮されなくてもよいであろう。というのも活動的住民であるなら、こうした地震に脅かされて、絶えず新たに建物を拡げてゆくことをやめはしなかったと思われるからである。」(287頁)
 結局、異常な人口減少は、主因としてポリス内の中間層(現代的に言うならば)が大衆によって絶えざる収奪をされたこと、さらに国内の乱れと内乱などが加わって、親たちが絶望して子供たちに将来を託すことをあきらめてしまったことにより発生したと見ている。
 「しかし存在した救いというのが、ギリシア人がこれ以後、新しい属州マケドニアのローマ総督の従属下に入ったということを意味していたのはいうまでもない。」(283頁)
 そして最後には、前146年にローマのムンミウスがコリントスを破壊し、アカイア同盟を解体、マケドニアとアカイアがローマ属州となることでギリシアの政治は終るのである。そしてギリシアは、「荒廃」から「破壊」へ、さらに「廃墟」(この様子もパウサニアスやストラボンの文献にもとづき語られている)に至り、跡にはギリシアの文化だけが残される。
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 「全般にわたって衰退しているこの時代に、ギリシア世界とその文化を救う第一級の世界史的現象が現われた。すなわち、ローマのギリシア愛好・・・・・・・・・・である。通常はきわめて冷酷で、そっけなく、ほとんど何も愛することのなかったと言ってよいローマ民族が、この場合にある種の理想主義と常ならぬ熱狂を感ぜざるをえなかったということは、われわれにとって真に一つの驚きに思われても当然である。」(306頁)
 ローマ人の民族的な特徴を上記のように描写する根拠は様々にあるのだろう。それはともかく、ローマ人のギリシア熱の背景の説明として、ブルクハルトは、太古からギリシア人と古代イタリア人との間に血縁関係があったこと、ローマはすでに古代においてギリシア精神と関連をもっていたこと、ローマ人は早くからギリシア語を多少理解することができたこと等をあげている。(306~313頁)
 第16代ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニウス(AD121年~180年)の『自省録』は、ギリシア語で書かれている。

(2016.5.1 記)