西川一誠後援会サイト

イッセイエッセイ詳細

イッセイエッセイ

1157号 スパルタ人は宣伝したか

2016年05月16日(月)

 スパルタ人と彼らの国は文化的には退屈なポリスであったろうが、ブルクハルトの描くスパルタ史は退屈ではない。
 アテナイのように様々なことが有り過ぎないので、読んでいても全体がどうであるか分りにくかったりはしないし、互いの事柄の相互混乱は感じらられない。スパルタは万事が極端であり、それらが真剣で真面目であればあるだけ、現代からみた場合に語弊はあるが奇妙をこえて奇怪なところがある。つまり時間をへだてると、いわゆるスパルタ式も戯画的に眺められ、スパルタはアテナイに較べてどうしてもロマンの欠如、かわい気のない国家(ポリス)という印象である。
 「スパルタ人は文学というものをまるで持たなかったが、そのかわりに簡潔な話し方ブラキユロギアを持っていた。それを表わすものとしてラコニア流ラコニスムスという言葉が普通名刺となっている。この能力はすでに早い時代から非常に計画的に育成され、若いころから仕込まれたのであった。」(第2章第2節2「スパルタ」162頁)
 関連したことであるが、ギリシアの他のポリスは成文の法典をもっていた中で、スパルタは文書の形では憲法を残さず神聖な定めとして伝えた(前九世紀のリュクルゴス憲法―成文法を用いぬこと、贅沢をしないこと、同じ敵とたびたび戦わぬこと、の三ケ条―)(141頁)。リュクルゴスはデルポイの巫女を買収して都合よい信託を下したという伝説まであるようだ(140頁)。この辺りが大国主義というか、覇権主義というか、面白くないところである。
 アテナイは特にギリシアに関わる事柄については筆を惜しまなかったから、結局このアテナイがスパルタという不倶戴天の敵の評判を総体的に確定することになったが、こういうことになったのも、ものを書くことをせず、また簡潔に語るスパルタ人の避けがたい運命なのである。」(133頁)(傍線小生、以下同じ)
 エウリピデスの悲劇の中でアンドロマケは次のようにスパルタ人に対し、悪企みの本家、嘘つきの名人、危難の製造元、ひねくれ者、人殺し、利得に恥も外聞もなし、口と心が裏腹だとして、スパルタ憎むべし亡ぶべしの言葉を言い放つ(同頁の引用されている科白から)
 「まずスパルタはそれ自体、いわばギリシア的ポリスの最も完成された表現であった。<…>まったく別な発展を遂げた他のギリシア全体と平衡を保つための錘(おも)りを構成していた。<…>この国の発する眩惑の光は強く、かつ全体にわたるものであって、それはその後の不幸な時代をも越えて生きつづけた。現実のスパルタが衰微すればするほど、かつてのスパルタはますます輝かしいものとなっていった。この国家はまさしく、憎悪された以上に羨望されることのほうが多かったのであり、他の相当数のポリスもスパルタのようになりたかったであろうが、しかしそれらのポリスはスパルタとは別な諸力、すなわち、民主制と個人主義を自分たちの手に負えないほどのものにさせてしまったのであった。」(134頁)
 スパルタ人のポリスには毀誉褒貶は多くあったが、まさにギリシアのポリスとして自他ともに比類のない極端な純粋原理型を完成させたとみられるのである。
 太田秀通・著「スパルタとアテネ」(1970年 岩波新書)では、「しかもなおこれを模倣したポリスがなかったことは、ポリス市民の大多数が、共同体の中に生きながら、スパルタのようなきびしい生活の中に生きることを欲していなかったということを示すものである」(同書81頁)としており、周辺のポリスによるスパルタへの称讃と敬遠の意識が見てとれる。
 「スパルタはまた教養ある全世界に対しても、自分たちの世が終るまでスパルタについて知らないでいるわけにはゆかないように強いることができた。強大な意志そのものが持っている魔力は、それに対していかなる共感も働いていなくとも、それ以後の数千年を越えてかくも偉大でありつづけるのである。権力というものはこの世で崇高な使命を持つことができる。おそらく権力を手掛かりとしてのみ、権力によって保証された地盤の上でのみ、最高級の文化は高く成長しうるのであろう。しかしスパルタの権力は、ほとんどただ自分自身のためにのみ、おのれを維持するためにのみこの世にあったように見える。そしてその権力の持続的なパトスは、被征服者の奴隷化と、支配権の拡張そのものなのである。」(135―136頁)
 文化の育つ地盤としても、権力の強さはその意味があるはずだが、スパルタはアテナイと違って、全く文化の方面に力を生かすことがなく、権力のための権力であったことを、ブルクハルトは語っているのである。

 「ある大きな生理学的事実の助けをさらに借りる必要があろう。それは、前8世紀、そしておそらくはなお前7世紀におけるギリシア国民の異常な多産性ということであって、これなくしてはあの大量の植民地派遣はまったく説明できないであろう。」(143頁)
 ギリシアではBC8~7世紀に植民市建設が活発に行われた。スパルタでは西隣のメッセニア地方を侵略したり、その後大量の国外移住が行なわれる背景となった人口問題を指摘している。しかしそしてそれから半世紀後になるともう、スパルタでも多産能力の最初の低下が認められたようであり、人口減少風潮を除去するための防止策としてスパルタ式の結婚、保育の手段がとられる。(144―145頁)
 「しかし仔細に吟味してみると、結婚には初めから何かある災厄が置かれていたかのごとくであり、これをあらゆる種類の法と習慣によって除去しようとしたのであろう。そうでなかったら、子供を生むと与えられた高額の奨励金、未婚の者や晩婚者もしくは不適当な結婚をした者に対する処罰、さらには他のスパルタ市民に自分の妻を許すなどに至っては、ほとんど説明できないであろう。たとえばこれについては、次のようなことが言われている。リュクルゴスは、子供を生むことは<品格ある人たち>にとっては共同の事柄たるべしと制定し、これによって一切のくだらない(!)嫉妬を断ち切ったのだ、<…>そもそも市民を生み出してもらいたいのだ、という願望のほうが大きかったのであろう。」(151頁)
 次はスパルタでの禁酒法、人々の迷信の支配など。
 「ただ1つの・・・点においてのみつらい犠牲が払われた。つまり、酒のたのしみがこの上なく細心に抑制されていたのであって、それは、国家の安全が常時素面しらふでいることに懸っていたからである。アテナイでは酔っぱらいが車で運び去られるのが見られ、またタレントゥムでは全市民が酩酊したディオニュシア祭においてさえ、スパルタでは例外は認められなかった。この種の祭典にこそ最も危険な謀叛が突発するかもしれなかったから、というのがその理由であった。」(156頁)
 「スパルタでは一般に愚かしい迷信が支配していたということ、そしてそれがスパルタ人の知力と心情の偏った発達のせいであったこと、<…>このようなことは、アテナイの、少くとも指導階級においては当時すでにまったく考えられなかったであろう。迷信と他人の迷信を卑劣な仕方で利用することとがスパルタでは互いに行われているのである。」(165頁)
 そのほかスパルタについて多くの奇妙な事柄(現代からみると滑稽さ)が書かれているが、ここでは省略する。
 なお、スパルタの奴隷制(第2章第2節4)の中で鉱山に関連した話しの言及がある。ブルクハルトは経済問題をほとんど論じていないが(この点は1つの課題である)、奴隷制の解説のところで鉱山経営が話題に出されている。ポリスが成り立つ富の源泉としては、貿易のみならず鉱山が古代では極めて有力だったはずである。したがって、ここに奴隷が多く厳しく使われ、銀山からの利益は膨大であって有力な富裕者たちが起業に参加したという。もうローマ時代になってからのことであるが、アッティカのラウリオン鉱山(スニオン岬付近)では、当時数万人の奴隷の暴動が起ったと伝えている。(212頁)
 「鉱山労働者という形で他のどれよりも不幸極まる階級が存在したということがすでに、あらゆる奴隷の不運なのであった。」(219頁)
 「プラトンのあの洞窟の比喩(『国家』)はこのような鉱山の坑道から得た印象に基づいているのではないだろうか?」(220頁)

(2016.5.10 記)