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1156号 アテナイにおける直接民主制と弊害(十人将軍、陶片追放、公共諸手当、公共奉仕、扇動政治家、誣告者)その2

2016年05月15日(日)

 第2章<国家と国民>第2節<ポリスとその歴史的発展>の9<都市住民の強靭な生命力>から。
(ギリシア人の移住能力)
 「ぎりぎりのところまで生存のために戦い、しかるのちに、家族、財産もろとも城塞じょうさいが炎と燃え、灰塵かいじんに帰する中を、もはやこれまでとみずから滅亡してゆく―古代においてはカルタゴ人(BC146年)やユダヤ人(AD73年)、リュキア人、ヌマンティア人(AD133年)、その他非常に多数の民族もこういう行動を採ることが可能であった。ギリシア人がこれと異なるところは、ギリシア人は、たとえ城壁の外に追い出され、もしくは外地へ移住しても、あくまで一つのポリスであり続けたということ、それどころか片々たる部分やばらばらの党派でさえもなお、どの植民地も実はそれが可能であったのだが、生命を持った一つのまとまった政治体であると意識していることである。人間はここではいついかなるときでもその人のいる場所やその人の財産以上のものと見なされている。ポリスはこのような人から成り立っているのであって、建造物から成り立っているのではない。そして、どこか他国で生き続けるためには、人々は心に憤怒と帰国の意志を抱きつつ、神殿、祖先の追憶や墓所を断念するのである。これらの特徴は、村落や地方小都市の住民によってなされたあの集住シノイキスモスすなわち共同移住によるポリスの起源からしてすでに理解することができる。」(369頁)
 当時の都市住民を近世のあらゆる都市住民と区別する特徴が三つある。少くとも決定権を有する大衆成員の強固な内部団結、外部のいかなる隷属に対しても示す嫌悪の念、そして移住可能性がこれである。<…>そして近世の住民自体が運命に対してかくももろいのは、彼らが本質的に単に居住者にほかならず、古代の意味における都市住民ではないからである。<…>『アナバシス』においてもギリシア人たちは、その素性は種々雑多ではあったが、絶えず陣営共同体としての自覚を抱いている。そしてクセノポン(注)はもう少しで、彼らとともに黒海沿岸に都市を建設するところであった。」(371―372頁)
(訳注―BC430頃―BC355頃。軍人、歴史家、富裕な貴族、ソクラテスに学んだあと、ペルシアのキュロスのために従軍し、1万人のギリシア人傭兵をもってギリシアに退却したときのことを記した『アナバシス』が有名。他には『キュロスの教育』、『ソクラテスの回想』など。)
 都市空気が人間を自由にする、と称されたのは中世のヨーロッパ都市のことである。しかしポリスの都市国家は、都市が住民であり自由が都市と一体であったから、宿命共同なのである。
 「今の北アメリカ在住の非イギリス系アイルランド人にあってはすべて、第二世代になると自分たちの言葉を英語に取り換えることさえ普通のことなのである。また、バビロニア幽囚後のユダヤ人とも異なり、神殿聖域といえどもメッセニア人たちを故郷へ引き寄せることはなかった。」(373頁)
 パウサニアス『ギリシア案内記』やディオドロス『世界史』が伝えるところでは、メッセニア人は祖国を追われて二世紀このかた他国で農奴のように扱われながら、テバイの呼びかけ(時の将軍はエパメイノンダス)に応じて世界のあらゆる果てから集まって、新メッセニア市(BC369年)を建設した。このときまで彼らは自分たちの風習や方言を当時なお保持していた、とブルクハルトは述べる。
 一方予測されたことであるが、その際にしばしば生じたかつて追放を受けた亡命者たちの原状回復と暴力によって、ギリシアの各都市は大きな災いをうける破目になる。

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 次の第2章の最終第三節<国家形態の客観的考察>では、ギリシア人がどう反省的にあるべき国家(ポリス)の理想像を考えていたかを論じている。
 プラトンが理想ユートピアを述べた『国家』、その後にまた条件付のユートピアを描いた『法律』も、現実社会では実現が不可能なものであったのは、ブルクハルトはプラトンの著作に大きな敬意と価値をおき乍らも、両著の思想はギリシア人の考えや人間の本質に反していたからだと述べることになる。
(プラトンのユートピア)
 プラトンのこの両著作に対して後世が申し立てることのできる一番の苦情は、ギリシア文化を停止させるという彼のプログラムに関連している。無論、ギリシア文化の無制限な発展は必然的にポリスの衰退を招きはしたが、しかしながら、これ以後のすべての時代にとって、この発展は限りなく重要であったのである。そして世界史はさらに、このギリシア文化を足場に途轍もないことを企てたのであった。もう一つプラトンに反対して、こう言うことができる。すなわち、彼はその二つのユートピアのいずれにおいても、ほんのわずかでも未来を言い当てることはもとより、これを実際に呼び出すことはまったくなかった、と。<…>偉大なトマス・モーアはプラトンに較べて実に限りなく優れている。というのも、彼の『ユートピア』は、その後イギリスと北アメリカにおいて現実となった。そうならないまでも支配的な観念になった非常に多くの事柄を予感的に含んでいるからである。モーアの『ユートピア』はおそらくプラトンの二番目の著書の影響下に成立したものであろうが、しかしこの本の『法律』に関する関係は、力強い青春時代に対する衰弱した老年時代の関係と同じである。」(384―385頁)
 プラトンと東洋の孔子の思想は、場所の違いによる様相の差異はあるにしても、その不可能な理想主義という精神の傾向はほとんど類似しており、後世への重要な影響も全く同様に共通していると思われる。

(アリストテレスの典型国家類型)
 「プラトンは彼のユートピアが実現されるのを見ようという期待を抱いて独り立っていたとしても、すべてユートピア主義者はやはり、彼らの同時代人たちに実践的に影響を与え、彼らに一定の政治的・社会的針路を伝えたいというある種の要求を前提として抱いていたとせねばならないであろう。こういう人たちすべてに較べると、アリストテレスは孤高の姿で立っている。彼は何よりも、他のすべての人たちよりも現実の国家についてよく知っていた。また『国制誌ポリテイアイ』という、わずかに貧弱な断片の形で存在している彼の大きな著書は、百五十八の(それどころか引用によって知られているものでは二百五十の)さまざまな国制についての報告を含んでいた。しかし『政治学ポリテイカ』すなわち国家論は保存されている。そしてこの著書の価値がどこにあるかといえば、国家の性質と目的についての全般的な定義もしくは有力なギリシア的見解、あるいは現実に存在するものについての豊富な報告のみにあるのではなく、だいたい二、三の根本形式が権限を有し、それがもろもろの典型を形成するのだという認識にあるのであって、アリストテレスはあとでそういう典型の変性をそれに対比させている。その結果は、世界は政治的なものを今日に至るまで、そのある部分をアリストテレスの眼で見、彼の表現を使ってそれについて語る、ということになったのである。」(386―387頁)
 『国制誌』の中の『アテナイ人の国制』がほぼ完全な形で公刊されたのは1891年であり(訳者解説)、一方、ブルクハルトはこの部分の箇所を1880年に書いているそうであるから(甥ヤーコプ・エリーの注書き)、その間にやや時期の前後差がある。これらは現在ではごく常識化している政治学の君主制、貴族制、民主制の三類型のことを指しているものと思われる。ブルクハルトは、歴史を見るとき過去に生じた事柄を“類型化”させて理解しようとしており、段階的な“進歩”の観念でもって理想が実現してゆくものとは見ていない。
 アリストテレス学派に対する評価をするブルクハルトは、一方で「しかし犬儒学派の徒は、すでにアンティステネス(訳注―BC455頃―350年頃。シニック・犬儒派の祖、ソクラテスの弟子、ストア派に影響)以来、貧という特権によってポリスの外に身を置き、ポリスに対していまや露骨な嘲笑を浴びせたのである。彼らはどこにあっても家郷にあるがごとくに、またどこにあっても異郷にあるがごとくに振舞い<…>圧制的で衰微した共和制国家の生きた批判なのである。最後にエピクロスが現われ、ポリスを安全のための相互的な契約という理性的な程度に引き下げることによって、思索する人たちを少なくとも想念の中で解放したのであった。ここにおいては人間はもはや法律のために存在するのではなく、法律が人間のために存在するのである。無論これら個々の人たちのいかなる洞察も、現実のギリシア諸国家における崩壊の過程が、まったく名目だけの自由と、ひたすら行われた迫害と、そして内的危機を伴いつつ、進行をつづけるのを阻止することができなかった。」(387頁)と述べる。

(ポリスの発展と限界)
 力というものは、対立においてのみ相互的争闘においてのみ余すところなく展開を遂げ、かつ意識されるものであり、また強力な発展を遂げた政治的な力は、あらゆる外的・精神的繁栄のための大きな根本条件であり、この力にすがって成長する文化の欠くべからざる支柱であるとは、古来からの世界法則である。このあとのほうの点に関しては、ギリシアの諸ポリスは長期にわたって偉大な業績を成し遂げている。次に、人類の外的運命は全般的にみて、ペルシアの世界制覇の勢力が西方に進出するのを阻止したギリシアの全盛期に、ギリシア人たちによって決定されたと考えてよいであろう。」(388頁)
 「われわれはおそらくこう言うことができるであろう。すなわちポリスは、内外に向って発展していったとき、そのポリスの人間たちをだんだんと圧倒的な不幸に追い込んでしまったにちがいない、と。ポリスは個人を陶冶してただ単に人格ある者に育て上げただけでなく、個人をきわめて激しく駆り立てたが、しかもなお完全な諦念を要求したのである。そしてついにはポリスに代ってそのときどきの大衆が発言するようになる。それも今はもはや、より高次の普遍者の意を体してというのではなく、彼らの貪欲の赴くままに発言するのである。しかし、この貪欲は、決してこれを静めることができないという特性を持っている。」(388頁)
 「世界史全体を眺めわたしたところ、ほとんど他のどんな潜勢力もその生命と努力の代償をギリシアのポリスほどおそろしく高価に支払ったことはないかもしれない、という見解に達しうるのである。なぜなら、ギリシア人たちの高度の精神的発達と同じ程度に、彼らが互いに加え合った苦しみに対する感覚も増大していったにちがいないからである。」(388頁)
 このようにしてブルクハルトは、ポリスの発展と限界を以下に総括する。
 「独創的人間を根絶し、その他の人たちを威嚇して私生活の中でこれを沈黙させ、不公平優遇を行ない、公的な演説を濫用することによって失われたにちがいないものの総計を、もしわれわれが思いうかべることができるとすれば、われわれは声高く嘆き悲しむことであろう。ポリスの急激で遮二無二前へ進む生活がなかったならば、ギリシア人にしか成し遂げられなかったいかに多くのものが、なお全盛の域に達しえたことであろうか!
 つまりポリスの発展はギリシア文化を生み出すエネルギー源ではあったが、またその極端な歴史的展開が反って、もっと発展できたはずのギリシア人の優れた良き可能性の芽をつんでしまったことを遺憾とするのである。

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 以上が『ギリシア文化史』についての第一巻の「ポリス」、「アテナイの民主制」、「都市住民の強靭性」、「国家形態」からの小生の引用と要約、そして感想の付記である。
 ここで『ギリシア文化史』について、ブルクハルトとほぼ同時代(やや後)の思想家・政治家であるヒルティの感想を追加する。ヒルティが述べるところによれば―ヒルティの『マキァヴェリとヴィーコ』は1906年に公にされており、『ギリシア文化史』が1898年に前半部が出版されているので、同じスイス人として読んでいたのであろう―ブルクハルトが『ギリシア文化史』で描いているものは、極端な唯物主義、企業欲、権力意識、非倫理性などこれらに由来する神経(過敏)病だ、と言うのである。
 また『歴史における主観的要素について』(1904年)においてヒルティは、歴史記述はある程度不満足のもので我慢しなければならないとしても、本質的にぜひ要求されるべき点は、「平均的な大衆の影響と大衆の意義だけを認めようとする唯物論的=自然科学的および社会的見解に対して、個性・・と個性的なものの見方を再び強力に主張することである」と述べる(著作集第11巻231頁)。そして、「機械的な、あるいはいわゆる<一元論的な>世界観は、同じような個性のない大衆を生み出して、独立自尊の人間、実行力のある人間を生み出さないと言う。
 そして「ヤーコプ・ブルクハルトさえ、彼の哲学的な世界観全体は一元論に遠くへだたっていなかったのであるが、それにもかかわらず彼に与えられた人間理解の大きな才能によって、彼が心から尊敬する先生であるランケを、強力な主観性に欠けている、したがって率直な勇気に、勇気一般に欠けているゆえに、正当な名称で呼べば、彼の『高尚な中立性』のゆえに非難している」(同232頁)と述べて、ブルクハルトが歴史の客観性や無性格性、公平さといった態度を受け入れなかったとしている。
 ヒルティは、歴史記述においては記述者の人間的性質がなんといっても重要であって、われわれは歴史記述者を外交官や学者として持とうとするのではなく、強力な個性と直観性・・・を持ち、熱情のある力強い人間、芸術家・・・を歴史記述者として持つことだと言う(233頁)
 ブルクハルトはこれに合格する歴史家ということであろうか。

(2016.5.10 記)