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1156号 アテナイにおける直接民主制と弊害(十人将軍、陶片追放、公共諸手当、公共奉仕、扇動政治家、誣告者)その1

2016年05月15日(日)

 ブルクハルトは、アテナイ史における政治的帰結としての直接民主制について、明暗とりまぜて次のように述べる(『ギリシア文化史』第2章第2節7<アテナイにおける民主制とその形成>から)。
 なお、以下の引用文に付した括弧(標題)および傍線は小生。
(民主制)
 アテナイにおいてまったく不可能のように思われることが1つあった。それは少数者による統治を万人のための自由と結び付けた制度の採用、被統治者の権利平等を前提とする寡頭政治、すなわちトゥキュディデスのいう“同権的寡頭政治”の採用である。なぜなら、これを採用した場合には暴力の濫用は必至であったろうからである。<…>ギリシア人たちは市民的平等を政治的不平等と結び付けることは決してできなかった。」(297頁)
 アテナイのギリシア人は、市民としての権利平等と統治の平等とが分離されてもかまわぬと観念する人たちではなかった。アジアの伝統とは異なり、平等且つそれが全ての分野でという二重の意味で、より徹底した民主制を体現させたのである。

(市民支配)
 貧乏人は不法から自分をまもるために、投票に参加し、裁判官であり、また市当局でもありえなければならなかった。全存在に対してポリスは巨大な力を持っていたから、ごく卑賎の者でも共にこうしたことに関与することをそれだけいっそう切実に要求しないわけにはいかなかったのである。こうして、それ以前には王や貴族もしくは僭主たちが所有していた全権力が今や市民デモスの手に入ることになり、そうなるとそれは市民デモスによってずっと広い範囲へと、個人の身心に対してはるかに強く圧迫する方向へと推し進められるようになる。というのも、市民デモスは支配権を握った場合には不安と嫉妬の感情をいっそう強く抱くからである。」(297―298頁 同)
 このギリシアの“直接民主制” は、世界史の教科書(山川出版)では「民主主義という考え方を世界ではじめて生みだした点で世界史的意義は大きい」と説明されている。しかし、この民主制も衆愚政治化が生じたと教科書にある。なぜなら、引き続くポリス間同士の覇権争い、ペルシアの干渉などから、ポリスの衰弱と市民団の疲弊が生じ、軍備力も市民軍の手から傭兵制へと変化して行ったからである。

(十人将軍)
 「そして、ここにおいて何よりもまず、市民デモスが才能豊かな個人の影響を抑えるのに使った対策が観測されうる。それは、最高指揮官を選ぶときの手続きと、陶片追放オストラキスモスである。」
 戦時指揮は、ある個人を優勢にさせぬため、毎年十人の将軍を選び最高指揮権を交替した。しかし、対ペルシアのマラトンの戦い(BC490年)では、アリステイデスは賢明にも一人のみの指揮官に任務を委ねたことにより勝利した。しかし、それから三世代を経てスパルタとのアイゴスポタモイの海戦(BC405年)では、アルキビアデス(BC450年―BC404年、ソクラテスの弟子)の警告にもかかわらず、前例の教訓にならった体制をとらなかったため敗れた、とブルクハルトは言う。

(陶片追放)
 また“陶片追放”は前487年にクレイステネスが、僭主制を永遠に阻止するためにという口実のもとに設けたのに由来する。市民権や財産は奪われなかったが、5~10年の国外追放を受けなければならなかった。
 「出身都市以外の土地に滞在することは相当に危険を伴い、追放が死刑と同一視されていた<…>前5世紀の卓越したアテナイの人たちはすべて一度はこの道を歩まされたか、少くともこの威嚇を受けている。その名の知られていない多くの人たちにしても同じである。<…>ここには永遠の憎しみが現われている。だがそれは下層民の憎しみではない。―というのも民衆は、人為的に扇動されることのないかぎり、むしろ大野心家に味方して考え、もしくは共感を抱くものだからである。―そうではなくて、これは、稀有にして比類のないものに対する思い上った無能の輩の憎しみなのである。陶片追放は群小野心家の発明である。アテナイ民衆は相当に愚かであったから、こういう輩の奔走に対する責任をたっぷり背負わされる羽目になったのである。」(298―299頁)
 この有能人の影響を防ぐ手段として陶片追放は、毎冬、評議会がある市民を追放すべき理由があるかどうかを民衆に問うた(6千票以上<有権者の2割程度か>を得ると流刑)。たとえばこれによりマラトンの戦いの指揮官だったミルティアデスは獄死の運命にあい、サラミス海戦の将軍テミストクレスはペルシアで客死することになる。そして、アテナイが覇権を獲得して後5世紀末には弊害の大きさから遂に実行されなくなる。
 プルタルコスは『英雄伝』で「これが、かのペリクレスさえも非常に長い間臆病にさせていた心配の種」であったと伝えている。実際にアテネがペリクレスを失うことになった事情は、陶片追放によるのではなく疫病の流行のためであったが、ここからアテネは没落の坂を下る。

(さまざまな公的手当)
 すべての事業は、2万から3万の市民の双肩にかかっていたが、彼らはますます公共の生活に貢献することができる必要があり、一方労働のほうは在留外人と、奴隷たちの義務とされたのである。戦時手当の実施はここから生じている。というのもなにしろ、陸軍と海軍はただ単に覇権下の諸国家(それらは自分の割当額を金で払っていた)を援護しなければならなかっただけでなく、強国としてのアテナイを至る所で、かついかなるときにも代表しなければならなかったからである。法廷手当も事情は同じである。つまり、富裕なものを裁判官にしたくなかったことと、今やアテナイは同盟諸国の法律事件のための法廷にもなっていたので、その結果、何日にもわたって市民のほぼ三分の一が法廷に出席することになったからである。民会手当も同様であった。すなわちこの強国の全内政活動並びに対外政策は、公的審議に携わる民衆の果すべき責務となっていたのである。<…>―最も恥知らずな手当はしかし、観覧手当テオリコンであった。これは、一部は祝典や競技を祝うために、一部は劇場への入場料の支払いのために、一部は供物や公的会食のために、市民たちに支給されたものである。こういった浪費は、豪奢を極めた宮廷のそれと較べていささかも劣るところはなかった。もっとものちになると金詰りのために、勝てる戦争もいくつも失ってしまっている。それというのもこの諸手当という聖域は絶対侵すべからざるものであったからである。」(301―302頁)

(アテナイ市民の貪欲、増長、神経過敏)
 アテナイの充実した栄光のあの束の間の数十年は、のちの世のあらゆる時代のためにどうしても一度は体験されねばならないものであった。それはただに、最も高貴なものがこの時期に創造される必要があっただけでなく、これに加えて、およそギリシア的な精神をもって果たしうるものの基準を得ておくためのものであった。しかし、あのような状態がもっとずっと長いあいだ存続すればよかったのに、というような遅れ馳せの、あだな願いは、まったく空しいものである。というのも、当時の一般的状況はどうにもならないところまで締め上げられていて、どう変っても、行きつくところはまず滅亡以外にはなかったからである。まず第一に言えることは、アテナイ人たちはきわめて現実的な性質と能力を有していただけでなく、いろいろ困った情熱も持っていた。そこでペリクレス(訳注―BC495頃―BC429年)は、彼流の教育をやるかたわら、彼らの飽くなき貪欲を―静めるのではなく、なぜなら、そんなことは絶対に不可能であったからである―あらゆる種類の享楽を与えてなんとか抑えておくことを強いられていた。もし彼にしてキモン(訳注―ペリクレスの政敵、富裕な政治家、将軍、ミルティアデスの子)のような金持であったなら、自分の財産を使ったでもあろうが、そうはいかなかったので、公の資金をこれに流用せざるをえなかった。これに加えてアテナイ人たちの恐ろしいほどに高まった名誉心は、必然的に彼らの教師たち自身にも逆らうことになり、教師たちの先に立って走ろうとしたのである。ペリクレス自身、その晩年において四方八方から攻撃されて、どのみちこれではもうギリシア全体にわたる戦争が突発するほうが少なくとも願わしいくらいだと考えざるを得なかった。」(303頁)
 しかしブルクハルトが上記のように語るのはなぜかといえば、ペリクレスがペロポネソス戦役の最初の犠牲者に捧げた有名な追悼演説は現代の政治家が演壇で話しても古臭さはなくそのまま通用する内容と言葉使いから成り立っている。その演説が「ことに数千年の隔たりにおいて見ると、ペリクレスが賢明かつ分別をもって振舞っているだけに、それだけいっそうひどい欺瞞を行使しているのである」(302―303頁)と述べ、彼が一種の楽天主義、市民信頼という建前の姿勢をとっていることは、ペリクレスの同時代人にもよくわかっていたようだと言う。
 つまりペリクレスが「人々の思い上った気持を引き下げ、また彼らの委縮した気持を引き立てることのできた時代はもう過ぎ去っていた」のであって、さらに「市民たちは数多い民会エクレシアゼイン法廷集会デイカゼインによって明らかに神経質になっていた。というのも、日常の労働がもたらす心を和らげる力が、大部分の人たちに不足していたからである(303頁)と述べる。
 そして、アテナイのスパルタに対する屈服によって、アテナイ国内においては民主制支持者と貴族ないし富裕者との抗争が激化し、三十人僭主(寡頭制)の出現(BC404年)などがあったが、すぐに民主制が復活し(BC403年)、有産者に対する攻撃がつづく。
 アテナイ国家における外見上の生活は、この危機ののちにおいても大部分の点では以前と同じ様相を示しており、したがってこのような生活を観察しても、時代区分することはほとんど不可能である。大きな相違点はむしろこの時期の前と後におけるアテナイ人たちの内面的性質と外面的境遇にある。」(309頁)
 「同盟諸国の訴訟事件を裁く必要はもはやなくなっていたが、それにもかかわらずしょっちゅう裁判をする習慣がついていて、それに敗者の常としてひどく疑い深くなっていたものだから、人々は今やそれだけいっそうアテナイ人を数多く裁いたのである。その最初の犠牲者の一人がなんとソクラテスなのであった。」(309頁)

(公共奉仕)
 「アテナイにおいては、ポリスは、個人を鼓舞しつつ、同時に個性的なもののきわめて強烈な発展を捉し、私有財産の獲得とそれによって惹き起こされたものの考え方をあらゆる方法で助長したのであった。今や市民デモスは、実にさまざまな種類の公共奉仕レイトゥルギアの形でこの富の恩恵に与ることを盛んに要求した。そしてペロポネソス戦役(拙注―BC431~BC404年)のころまでには、この公共奉仕は一部は実際上の献身の問題であり、一部は気前のいいところを見せようとする野心の問題であった。」(312頁)
 「しかし、時代が悪い方向に向ってくると、文字どおり富を食い物にするということが始まるのであるが、これは、多くの報告から知るところでは、まさしく富の収奪と感じられていたのであり、またそういうことができたのも、ひとえに有産者はポリスを去ることができず、かりに逃亡したとしても、外地には同じ危機、いやもっと大きな危難が待ち受けていたからである。」(312―313頁)
 「強制ということがこれらの事柄から尊厳性を奪っていたのだ。アテナイ国家は、個々の有資産者や生業を営んでいる者に対して、国家がその者に与えた(いずれにしてもごく制約されたものにすぎなかったが)安全と引き替えに好きなように課税する権力を持っていた。ところが、この国家ははなはだ気まぐれで、かつ貪欲な市民デモスの手に落ちてしまっていて、市民デモスはやがてもっと高額の税金支払い者を遠慮なく指定し、民衆に直接お金を分配することを非常に民主的であるとさえ考えたのである。娯楽のための浪費ということでは、いずれにせよ国家が先頭に立っていた。」(315―316頁)
 さらにアテナイの現実的な政治家で財政家のエウブロスの時代(BC353―BC339年頃)にもなると、「祝祭費」が全予算の主要項目となる。これを戦争目的に転用する提案を最初にする者は、死刑にするという威しによってこの予算項目が保証されていた、とブルクハルトは言う。

(煽動と誣告)
 ペロポネソス戦役後の民主制国家の再建のあとは、寡頭制主義者たちはもはや行動が困難となる。
 「もっぱら民主制支持者たちだけが二つの相貌のもとに民会並びに民衆法廷を支配しようとする。それは政治演説家(雄弁家、扇動政治家)と誣告者シュコパンテスである。この両者を1人・・の人物が兼ね備えていることもありうる。拍手をしたり、弥次を飛ばしたり、偽証をしたりする彼らの取巻きがいたことは言うまでもない。」(325頁)
 「しかしながら、絶え間ない告訴の形で現われる不信は、ときとして実際に正当であることがあったにしても、一種の病気であった、しかも、不治の病いたらざるをえなかった病気であった。というのも、人々はこれを健康のしるしだと思っていたからである。しかし、一時しのぎの告訴をするかわりに、規則正しく監査を行うのは、公職者全体が絶えず不安定な状態にあったため、まったく不可能であったろう。まして純然たる軍法会議などは望みうべくもなかった。このようにして、多数の人たちが告訴し、また多数の人たちが実際に横領するという事態が続いたのである。結局のところこれは、いくら正直であっても何の保証にもならなかったという理由からではあったが。」(328頁)
 「ところで、このような制度を申し分なく運用するために、誣告者シュコパンテスの威勢のいい大群が生じた。すなわち、密告が正式の職業として承認されたのである。」(329頁)
 「そしてわれわれはこの恐怖政治がペロポネソス戦役開戦百年のあいだ、開戦以前と同様の勢力と繁栄を誇っているのを見出すのである。さらにアレクサンドロス大王後継者ディアドコイ時代にはローマ人に至るまで蔓延しているのを見出すのである。このような職業がなんら名誉も不都合ももたらさないものであるということをある国家が認めるなら、いかなる時代、いかなる民族においてもこの種の職業に従事する人間を見出し、これを意のままに使えるだろう。しかし、このことをまさしくあからさまに認めて、それによって多少なりと有力で、資産を有する市民すべてをこのような監視下においたのはギリシア民主制だけであり、しかもそれが完全な状態で見られるのはただアテナイ民主制だけであった。しかし下層民は無論こういう事柄になんら不快の念を抱くことはなかった。というのも、これらは彼らの気持にぴったりであり、納得のゆくことであったからである。」(330頁)
 「ポリスが達成したものは以下のごときものであった。すなわち、罪のない人たちに対する威嚇、罪を犯した人たち、煽動政治家たち、そしてそれらの背後にいる誣告者たちとのあいだでの取引きと妥協、そして一種の悪臭である。そしてこの悪臭は公共生活の隅々にまで滲透し、最も優れた市民たちの多くが、公共生活に対してひそかに、また公然と背を向けるのに大々的にひと役買っていたことは確かである。」(332頁)
 このようにアテナイでは犯罪者を密告シュコパンティアする者は、有罪を告せられた者の科料、没収財産の半分がもらえた。訴訟の流行について、誣告者シュコパンテスは富裕市民をその犯罪の有無にかかわらず告訴し、密告された者は高額の口止料を支払って難を逃れる(訳注―スパルタの項148頁から)という社会的退廃が生じた。
 「おれは島の訴訟の証人だよ、つまり誣告者シュコパンテス、嗅ぎ廻り屋だ。溝掘りなんぞごめんだよ。おれの祖父じいさんの代から、もう密告でくらしてきてるんだ」―アリストパネス『鳥』

 「市民がこのような生活をあえて営んだ理由は遠く離れたところにあるわけではない。すなわち、堅実な労働に背を向け、民会や裁判沙汰にばかり慣れ親しんでいたアテナイ民衆は、のらくら者がいつも食べることばかり考えているように、まったく常軌を逸した、さもしい空想に身を委ねていた。彼らは犠牲者の財産、手に入れられそうな獲物をおのが欲望のままに心に描いていたのである。そうでない人たちは税金や負担をしばしば不正なやり方で免れ、できるだけ他人に押し付けていたことは、言うまでもない。これらの人たちとてやはりアテナイ人なのであって、こういうごまかしや偽証をやりながらも相当なことをあえてやっていたのである。」(319頁)
 ポリス末期のアテナイ市民の病的なまでの好訴癖が描かれているが、民主制が何の制約も伴わずに行きつく先がこの姿であるとしたら、自制のシステムがあわせて必要になる。

(2016.5.10 記)