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イッセイエッセイ

1155号 ブルクハルトの描くポリス像(承前)

2016年05月15日(日)

 ここで序論をはなれ、以下は本論の「ポリス」に戻る。
 ポリスとは何であったか、ブルクハルト著『ギリシア文化史』第一巻(新井靖一・訳 1991年
筑摩書房)からの超要約である(括弧標題及び傍線は小生)。
 なお、ギリシアのポリス共同体のこと等を論じた太田秀通ひでみち著『スパルタとアテネ―古典古代のポリス社会』(1970年 岩波新書)を併読した。この本は、古代国家発展の法則である部族から世界帝国というコースをとらずに、異例なポリス社会を生み出した特殊な発展構造を解明しようとするもの、と記されている。大学紛争時の作品でありややマルクス主義的な影響がみられる進歩史観をとるが(27、56、189頁など)、スパルタがよく描かれており、全体によくまとまった通史である。

(あらゆる発端というものは不明のままである)
 「ある民族がどこで、またどのようにして存在しはじめているか、という問題は、あらゆる発端がそうであるのと同様に、あくまでも不明の域を出ない。」(同巻79頁)
 もっともブルクハルトは、家族(一夫一婦制)、祖先崇拝、土地所有権、相続権などは、ポリスの発生よりはるか以前に存在していたと推量している。なぜならポリスがすでに存在していたとすれば、これらの事柄は別の形に定められたであろうと確実に考量できるからだ、と仮定法で言う。

(都市国家はギリシア人だけの専らの独創ではない)
 「すでにギリシア人たちに先んじてポイニキア(フェニキア)人たちは、ポリスすなわち都市自治体、都市国家機構を、憲法ともどもに設立していた。<…>ポイニキアのポリスは、きわめて活動的で、堅固な海岸都市ばかりであり、軍人階層もなく、またおよそ社会階層もなかったが、しかしあらゆる手段を駆使して防衛する方法を心得ていた。この模範がギリシア人たちになんの影響も与えずにいたと仮定するならば、これはギリシア人たちの名誉を傷つけることになるだろうか? ポイニキアの文化が早い時期にギリシア人の生活の中へ侵入していたことは、さまざまな別な点にかんがみて現在では一般的に承認されている事柄である。そしてテバイはおそらく、後代のボイオティア(拙注―ギリシア東部の地方)の土地に建てられた、元来はポイニキアの都市であったのであろう。いずれにしてもギリシア人たちは、すでに早くからしてポイニキアの沿岸諸都市と、そこの植民地についての知識も持っていたにちがいない。」(85頁)
 ギリシアのポリス(都市国家)の由来が、メソポタミアに近いフェニキアのポリスから影響をうけた(伝播した)ということを述べている。
 こうした点は東洋史家の宮崎市定のいう他の文明からの時間的模倣(エッセイ1059号「歴史とは何か」参照)と同様の考えであり、歴史的事実の「繰り返し」を主張する点も共通している(エッセイ1065号「歴史は繰り返すか」参照)。しかし、ブルクハルトが文化的側面から歴史をとらえ、経済史(たとえば銀山の発掘史など)を直接論じない点は異なる。

(ポリスの建設は、一回的に観念され、徐々にではない)
 「ポリスは決定的な、ギリシア的国家形態であり、ある一定区域の共有地を支配する独立した小国家である。そしてこの共有地においては、他の堅固に防備された村落はほとんどもはや許容されず、また何にせよ別な独立した市民団はいかなるものももはや許容されないのである。ポリスの成立は決して漸次的なものとは考えられず、つねにただ、強い、瞬間的意志もしくは決意の結果として、一回的なものとしか考えられない。ギリシア人の空想は、一回的な都市建設(クテイセイス)のみで満されており、またいかなるものも最初からひとりでに生じたことがないように、ポリスの全生存もそこにあるのはただ必然性ばかりである。」(88―89頁)
 「序論」において既にブルクハルトは述べたように、「報告されているある行為が全然起らなかったか、もしくはそのとおりには・・・・・・・起っていなかった場合でも、その行為は実際起ったないしはある特定の形で起った、と仮定するような物の見方に価値がある」という点に照応しているようだ。ポリスが実際どのように作られたかの諸資料には限界があるであろう条件の中に於いてである。

(民族移動と集住による諸ポリスの建設)
 熱狂的な生命衝動が、ポリスを創造するに当って採用している形態は、大抵はいわゆる集住シユノイキスモスである。これは従来の村落共同体を、もし可能ならば、今は海岸にある堅固な防備を持った都市へ移住させて集めることである。海上略奪と貿易が当時はいっしょになっていたということ、岩の多い岬と入江がこのことにどんな役割を果たしていたかは、おそらくそれほど重要なことではなかったであろう。人々はなによりも堅固な政治的組織体を形成しようと意図しているのであり、同じ経過が進行しつつあった近隣のポリスに対して身構えようとするのである。交通や物質の繁栄などを目的とするだけなら、都市ポリスマ都市プトリエトロンの域を出ることはなかったであろう。しかしながら、ポリスはこれ以上のものなのである。」(91頁)
 こうした集住によるポリス建設へと駆り立てた外的な強制とは、多くの場合、「ドーリア人の移動」と呼ばれる民族移動が背景にあった、と著者は説明している。村落状の生活をしていたそれ以前の時代は、どちらかといえば無邪気な時代であって、山賊や海賊に対してもしや自衛が必要であったとしても、農民の生活をしていたのだと言う。

(強制的な集住により、国土荒廃、人口減少が生じたらしい)
 「だがここに至って、ポリスとポリスは生存と政治権力のライバルとして相対峙することになった。それ以前には土地がはるかに広く開墾されていたことはまったく疑いがない。というのも、都市への集中とともに、全耕地のうちで遠隔にある部分がどうしてもおろそかにされ始められるということが起ってきたからである。集住シユノイキスモスはギリシアの国土荒廃の始まりであったかもしれない。」(92頁)
 この部分に関しストラボン(前46―後21年頃)が『地理』においてアカイアの地域について語る折に、「もっと古い時代には住民の数がおびただしくあった」と推測している記述を引用している(著者の原注から)。
 集住による村落・小都市の放棄、祖先の土地や墓からの離別、それによる人々の悲嘆と不幸、これらに払った犠牲は大なるものがあったと言う。
 都市集住(集中)による国土問題、その原初形態が時間と場所と姿を変えてはるか過去に見られる、わが国の人口減少という目下の課題について何か類似が感じられるといっては言い過ぎであろうか。

(力のある専制的少数者による土地移転とポリス形成)
 「このようなギリシアのポリスには、他の歴史のどこにもほとんど二度と現われることのない、苦い苦痛の集積がある。すなわち、土地に寄せられる何にもまして強い心情と、きわめて大きな敬虔の念、そしてこれを無視して行なわれる、強引に課せられ、決定される実におびただしい土地移転がこれである。」(93頁)
 古代ギリシアでは土地移転(居住地移動)が強制的に集団としてなされた。現代における地中海域周辺の、内戦による大量の避難民の移動、わが国における社会経済事情を背景にした都市への移動、など共通性はそれらにあるや?

(ポリスによる、農村生活から都市生活へ、農民から政治家へ)
 ポリスの形成は住民の全存在における大きな、決定的体験であった。生活方式は、田畑の耕作を続けている所でも、農村的生活方式から圧倒的に都会的生活方式へと転換した。それまでは『農業経営者』であった者が、誰もかれもいっしょに生活することになると、政治家となったのである。」(99頁)

(広場と談話こそすべてである)
 ギリシアのポリスを、一般の村落や他民族の諸都市と区別する外形的な基準は何かといえば、それはアゴラつまり広場であった。広場はあくまでポリスの「真の意味の生活機関」であったと述べる。
 「歴史的考察にふさわしいのは、ギリシア人たちの場合、会話なくして精神の発達は、他のどの民族の場合以上に考えられないということ、そして広場と饗宴シユンポシオンは、談話のための二つの重要な場所であったということを立証する点にある。しかしどこかの国の人間が、その人のいる場所以上の存在であるとすれば、これはギリシア人たちにこそ当てはまることである。すなわち市民団は、あらゆる城壁、港、壮麗な建築物よりもはるかに強力な産物である。」(105頁)
 これは古代ギリシア人の一般的な「能力説明」を述べたものであるが、アリストテレスは『政治学』において、ポリスを形成しさえすればギリシア人は他の民族を支配できたと書いている。
 以下はブルクハルトの「ポリス」の観察の要点である。

(怪人のポリス、人口より人材、自足自立、個でなく全体、教育体としてのポリス、強権性など)
(1)ポリスは、ギリシア人にとって、「いろいろな理屈が言われる以前に、すでに存在していた」ということである。ホメロスの描いた漂泊のオデュッセウスは、ポリスを持っている民族としか遭遇していない。食人巨人のライストリュゴン人でさえポリスの都に住み、またオケアノスの極西に住んだキムメリオス人でも霧と靄につつまれたポリスを持っていたと語られる。アリストパーネスは喜劇『鳥』の中において、鳥たちに向って1つの鳥の都市を造るべしと言わせている。(106頁)それだけギリシア人即ポリスなのである。
(2)ポリスは「自由人の共同体」である。人権というものは、古代においてはそもそも存在していない。ポリスでは何よりも「人間の質」が問題なのである(人間の数、量の点については制約を甘んじて受けて、我慢をする)、周知のスパルタがその典型である。(106―107頁)
(3)ポリスが自己のうちに持っていなければならない生活基準は「自給自足アウタルケイア」である。食料生産の畑、必需品調達のための交易と産業、強力な重装歩兵団ホプリテス(隣の敵対関係のポリスと少くとも同程度の)が条件である。(107―108頁)
 「あまりに人口の少ない都市は自給自足しない。あまりに人口の多い都市は、需要の点では自給自足するが、しかしそれは大衆としてであって、もはや都市としてではない。なぜなら、そういう都市はもはや真の統治組織、国家行政ポリティアを持ちえないからである。いかなる将軍がこのような大衆を指揮するのであろうか?」(108頁)
 「一万人の成年市民」からなる都市(ポリス・ミュリアンドロス)が大体において、望ましい限度と考えられていた(拙注―アテナ市の総人口は、教科書によれば奴隷その他もふくめ最盛期で25万人といわれている)。
(4)ギリシアのポリスは、はじめから「最初から全体を出発点」としていて、この全体は部分よりも、すなわち個々の家や、個々の人間よりも先に存在していた(アリストテレス『政治学』―「なぜなら、全体は部分より先にあるのが必然だからである」)
 個に対する普遍の優先、一時的なものに対する持続的なものの優先、個の生存の一切を全体に負っている。(110頁)
 「市民は一般にそのすべての能力とあらゆる徳を国家の中で、また国事への参与を通して実現する。全ギリシア精神とその文化は、ポリスと著しく強く関係しているのである。そしてさらに、全盛期の詩文芸と芸術の至高の作品は、私的に享楽されるべきものではなく、公共に属しているのである。」(110頁)
 父祖の都市パトリスとはこの場合単に、その人がいちばん居心地よいと感じ、郷愁がその人を惹きつける故郷ではない。<…>むしろより高次の、神的威力を備えた存在なのである。なによりも人はいったん戦争が起ったときには都市のために生命をなげうつ義務があり、しかもなお人はおのが生命をなげうつことによって、「養育費」を都市に返済しているにすぎないのである。」(111頁)
 全く厳しい世界像としてのポリスであり、現代人が想像するような自由で気楽な世界ではない。
 「養育費」の一部を都市に返しているという表現が、著者ブルクハルトの考えた用語なのかそれとも古典文献の語るところなのかは不明であるが、このところを「ふるさと納税」と関連づけて読むと奇妙な気分になる。
 雄弁の政治家デモステネス(前384―前322年)は、戦争に勝利したことが、個々の将軍の業績のように言われはじめたことを堕落の徴候だと言っている。彼の時代以前には偉大な事業も個人のものではなく、父祖の都市に属していたのであろう。
(5)さらにポリスは教育能力を持っており、市民を一生涯にわたって教育する。
 「統治と服従を伴った都市における生活自体が絶えざる教育とみなされたのである。」(113頁)
 「このようなポリスは、他の諸民族や他の時代の諸都市とはまったく別種の幸福と不幸を知っている。中世の最も活気ある都市共和国ですらも、ほんの一時的にしか、ポリスの知るような程度の生活と苦悩とに比肩しえないのである。」(同)
(6)ポリスとその利益に相対するとき、個人の生命や所有物はなんの保証もない。国家の絶大な力は、あらゆる面において個人の自由の欠如と共に手をたずさえてゆく、またポリスがギリシア人の宗教であった。強制手段としてやたらに使用される死刑、市民権剥奪アテイミア追放エクソリア瀆神アセベイアの告訴、兵役(アテネ、スパルタにおいては生涯軍役、なおローマ市でも46歳までであった)etc
 ポリスは、授けてやったわずかな安全に対して、できるだけ高価な代償を支払わせたのである。」(114頁)
(7)ポリスはまた、「法と憲法」とを同時に包括する高次の客観的な存在としての「ノモス」として観察される。近代世界での意味とは違って、ノモスは神々の贈り物として個人の安全保護、納税、懲兵に満足せず、ほかに一切の個人的生存、個人的意志を統治し、「都市の支配者」としてふるまう(117頁)
 ポリスは古来の風俗習慣や旧法のもつ威力を信じ、欠陥がみえてきても改変をつつしんだ。しかし次第に人民決議による法の無力化の動きがでてくる。
 さて、これまでの多くのポリスの特徴からみるに、ポリスの民主制とは一体何なのかという率直な疑問が生じる。ポリスの人民による法治主義は近代の米国に伝染していると現象的には思われるが、しかしギリシア人の精神は、たとえばリンカーンの人民による人民のため、の人民とは内実が全く違っている。
 「こういうわけで、個を普遍のもとへ完全に従属させるというギリシアの国家理念は、あとで示されるように、同時に、個人をきわめて強力に駆り立てるという特性をも発展させたのであった。ところでこれらの巨大な個人的諸力は、理想化する見解によれば、普遍者の精神に則って十全の発達を遂げたのであり、またこれらの諸力は、この普遍者の最も活力に溢れた表現となり、自由と従属は、調和的に溶け合って一つとなった、とされた。ところが本当のところを言えば、なによりもこのギリシア的自由はまずもって、すでに述べたように、ポリスは逃れることのできないものであるというように修正すべきである。個人はポリスを避けようとして宗教へ逃げ込むことすらできなかった。というのも、宗教もまた国家に属していたからである。それにまた、神々が親切で慈悲深いという確信を人々は持つことができなかった。しかし天分豊かな人たちは、この世に踏みとどまってなんとか持ちこたえなければならなかったから、全力を挙げて国家の支配権をわが手に収めた。こうしてポリスの名において個人と党派が政治を行うことになる。」(119頁)
 ブルクハルトは、弁論家のイソクラテス(前436―前338年)はこう言っているとして、「罪を負った個々の人間は、その報復が彼に追いつく前に死ぬかもしれない。しかしポリスは死ぬことができない(アタナシア)という運命を背負いつつ、人間と神々の報復を耐え抜かなければならない」を引用する(この引用文は、第二節9(369頁)にもあり、やや訳文がことなっている)。
 ヘーゲルの『歴史哲学』のこのあたりに関係する箇所(第2部第2篇第3章)を見ると、たとえば、「ギリシア人にとって祖国は、それ無しには自分の生きることのできない必然性であった」、「市民はまだ利己的な関心をもたず、したがって悪というものを知らない。客観的意思は市民の中ではそこなわれていない」、「人々が日々顔を突き合わせて暮している状態から、共通の教養、文化が生まれ、生きた民主政治が可能となる。民主政治において大事な点は、市民の性格が彫塑的で、一体になっているということである」などと、影よりも光の面からおもに描いてはいる。本書とは道筋のとらえ方ではそんなには変らないが、調子の大きく違うところは、ブルクハルトのギリシア人が近代人に近い心情の人間として描かれているのに対し、ヘーゲルのギリシア人は、ヘーゲルの材料に使われ、われわれとは全く異質の善悪福禍に無縁な抽象性、純粋性をもった人間として描写されている。

(2016.4.30 記)