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1154号 「文化史の意味」(ブルクハルト)―文化史序論

2016年05月15日(日)

 ブルクハルト(1818―1897年)の講義をもとに遺稿として出版された『ギリシア文化史』全五巻は、これを一読するだけでも簡単ではない。更にまとまった形で著者の真意を理解するにはおそらく数次の全読を要するであろう。残念乍らその時間はいろんな意味で無い。まずは目についた箇所や目下関心の向いた処から手をつけなければ、終るかどうかはともかく始まらない。
 ギリシアについての一番の関心はやはり「ポリス」とは何かである。現代の都市との共通点や違いは何かという点でもある。
 本著の第一巻は、第一章「ギリシア人とその神話」で始まり、第二章が「国家と国民」、そして第二章冒頭の第一節が「ポリス」の真相の解明に当てられている。つづいて第二章第二節は「ポリスとその歴史的発展」(内容として、王国―スパルタ―奴隷制―貴族制―アテナイ―その他のポリス―、など九項目から成る)についての解説がされている。この第二節中の第七にはポリス発展期の典型的な例として「アテナイにおける民主制とその形成」があり、最終の第九は「都市住民の強靭な生命力」としてまとめがなされる。
 そこでともかく、まずはポリス(第二章第一節)の部分を読み、「アテナイにおける民主制とその形成」及び「都市住民の強靭な生命力」をつづいて読んでみた。
 引用しようとしてみたところ断章取義の弊の感があったので、その後に最初の序論に戻ってこれを読んだ。読んでみて分ったことだが、この序論(約15頁)は、歴史叙述の方法論を考える場合にきわめて重要と思われることが書いてある。本書の結論が要約されているのみならず、著者の歴史に対する基本的態度が明らかにされているからである。
 扨てこの序論においてブルクハルトは、講義全体について自己の姿勢を「告白」し、これは試論であり自分は聴講者とは同学の士にすぎないと断る。そして古典文献、考古学、つまり資料と記念物の知識材料の研究は大切であるが、これだけでは事実や事件の吟味にとどまり、むしろこれに対する「視点」を打ち立てることが一般向けの人達に役立つだろうと言う(6頁)
 古典文献学、考古学の組織的書物の材料全体の中から著者が使用するものは、「ギリシア人たちの人生観を証明するのに並々ならず役立つものだけ」(同頁)にすると述べる。
 「ギリシア古代に関する真に知るに値する事柄を、それも古典文献学者でない人たち・・・・・・・・・・・・にも伝えようということになれば、文化史的に扱う以外にはほとんどやりようがないことになろう」(7頁)という前提に立つ。
 「ギリシア人の本質的特質を考察」することすなわち、「本講義の任務は、ギリシア人の考え方と物の見方の歴史・・・・・・・・・・・・・・・・・を示すことにあり、そしてまた、ギリシア人の生活の中に働いていた活気溢れる諸力・・、すなわち、建設的な力と破壊的な力についての認識を得ようとすることにある」(同7頁)と目的をしぼる。
 こうした文化史的考察の方がなぜ有益なのかという点についてブルクハルトは、歴史的事件に比べた場合「比較的重要な文化史的事実には確実性・・・がある」(7頁)からだと述べる。歴史上の事件については異論がいろいろあるのがつきものであり、潤色、嘘つき、捏造が起る。しかし文化史は、「最上級の確実性を持っている」(8頁)、なぜというに、文化史はその性質上、故意や利害によって歪められることは少なく、無意識的な形で残されるものであり、作り話しでさえ意味をもつとしている。
 「文化史は過去の人類の内面に向かうものであり、この過去の人類がいかなるものであった・・・か、どのように欲し・・考え・・観照し・・・、そしてなしえた・・・・かを告げる。文化史がこうして恒常的なものに立ち至るとき、この恒常的なものはついには、現下の事柄より偉大かつ重要に思われ、ある特性は、ある行為よりも偉大かつ啓発的に思われるようになる。なぜなら、行為というものは、そういう行為を絶えず新たに生み出すことのできるその当の人物に備わっている内的能力の個別的表出にすぎないからである。したがって意欲された事柄、そしてその前提となっている事柄は起った事柄と同様に重要であり、物の見方はなんらかの行動と同様に重要なのである。」(8頁)
 一方こういう方法論によっては、個々の事実や個々の人物は、ある程度犠牲になるかもしれないという問題があるが、決して消え去ってしまうのではなく、精神的な現象を説明するために引き合いに出され、証人として生きてくる(9頁)、と言う。
 「だが文化史のそれのような一般的事実は概して、おそらく特殊な事実よりもいっそう重要であろうし、反復して起こる事柄は一回的な事柄よりもいっそう重要であろう!」(9頁)
 ブルクハルトの考えでは、二度と起きない個々の継起的叙述を歴史だとはみなさないのであって、歴史的に報告されている事柄が類型性があり反復性を帯びているものであれば、それが例えば古代におけるギリシア人についてのものであれば、永遠性をもったギリシア人の実質的内容をもった姿形を見たことになると言うのである。
 やや世界はちがうが、松尾芭蕉の「奥の細道」などの記述と精神も、故人の心を眼前に見ている、という態度と言ってよいであろう。
 その上で、また文化史のすぐれた特徴は、諸事実をグループ化して強弱をつけることができ、叙述にあたってバランスのとれた方法が可能であると言う。
 「文化史のもう1つの利点は、もろもろの事実にそれぞれ釣り合った・・・・・重要性に応じて、これらの諸事実をグループにまとめて取り扱い、そのどれかを強調することができるという点にあり<…>文化史は、われわれと親和性を有するのであれ、我々と著しい差異を示すことによるのであれ、われわれの精神と真の内的結合を果たすことができ、また、真の関心を呼び起こすことができるような事実に重きをおく、だが瓦礫がれきはこれを無視するのである。」(9頁)
 一方、文化史的アプローチにおいても、その確実性に難点がある。なぜなら、文化史的な事実について、その重要度、特徴性、恒常性などの判断について、記述者の長期間にわたる広範囲の読書によってしても、思い違いやさまざまな誤りも起りうる、と言う。
 「懸命な努力によって成果を無理やり得ようとすることこそ、その得るところが最も少ない。むらなく勤勉に努めながら心静かに傾聴することが、われわれをさらに先へと導いてゆくのである。」(10頁)
 また文化史的叙述は、事件の羅列的な記述とは異なった、また別の意味での困難性を伴う。対象とする事柄は大抵、同時的で「一箇の巨大な連続体をなしている」のであるが、記述の方は継続的、漸次的になされることになり、どこからどう始めるかの、ためらい、叙述の反復をさけられず、また研究と知識の足らざるところはあえて仮説を立てたことを明らかにしなければならない。「対象の選択・・に際して主観的な恣意・・が強く働くことを回避するわけにはとうていゆかない」(11頁)。その結果、厳密な意味の方法論というものが確立しておらず、著者の「自分なりの主観的な方式」によって、重要度に均衡をもたせなければならないと言う。
 そのほかこの「序論」においては、ブルクハルトは、本講義は専門家でない人たちに対しても「特別な・・・学術上の問題に接するチャンス・・・・・・・・・・・・・・を提供するもの」であるとして、歴史の学習に一般に参考になるような考え方を聴講者(読者)に示す。
 「古代の著作家たちを読むことの重要性が、繰り返し強調されねばならない。その成果は、多少なりとも首尾一貫した読書を行うならば、勤勉な人であれば誰でも―その内容と形式に応じて―至るところで手にしうるものである。われわれは自分で得た収穫を通してどの著作家とも個人的な関係を持つに至るのである。」(14頁)
 関連して、現今の文学や新聞を読むことに夢中になることは、直接的にわれわれの「神経・・」に語りかけられるので、注意がいると助言をする。そしてこれら忠告のなかの一、二を以下に。
 「日常の事柄に属しているものはすべて、われわれのうちなる物質的なもの、われわれの利害心と容易かつ好んで結びつくものである。一方過去のものはどちらかといえば、われわれのうちなる精神的なもの、われわれの高次の関心と結びつくことが少なくとも可能・・なのである。」(同)
 「むしろわれわれは全体像に対して・・・・・・・関心を持たせるための、ギリシア精神一般を理解するための手引きを与えようとするものである。古典に関する学識については現在の歴史的・考古学的文献が配慮してくれる。―われわれは・・・・・教養と楽しみのための、生涯にわたって持続する手段を手に入れるのに、力を貸そうとするのである」(14―15頁)
 ここから知れることは、ブルクハルトは古典主義であり尚古主義であることである。

(2016.4.28 記)

 最後に古代のギリシア精神に対するわれわれの関心を生かし続ける必要があるとし、ギリシア文化を「理想化」することが問題だというのではないが、熱狂的に美化に努めることもないと言う。
 「結論・・」として、「ギリシア人たちは、大部分の人が信じているよりも、もっと不幸であった」というアウグスト・ベークの言葉(1817年)を引用している。
 そしてブルクハルトの総括は、「ギリシア人たちは彼らが行ない、かつ耐え忍んだものを、自由に・・・、またそれ以前のあらゆる民族とは異なった形で行い、かつ耐え忍んだのであった。彼らは、他のすべての諸民族のあいだで多かれ少なかれ重苦しい不可避ミユツセンが支配しているところにおいて、独創的、自発的、意識的な姿を取って現われている」(18頁)とする。
 さらに序論では、ギリシア人とわれわれの関係について述べている。歴史と文化、人類の進歩と文化の優劣といった難問を現代のわれわれにも提起することになる。
 世界発展の連続性・・・・・・・・という形象をそれ自体で可能なかぎり十分に補足して完全なものにすることは、教養ある人の特別の義務である。このことこそ、意識を持てる者としての教養人を意識を持たざる者としての未開人と区別するものである。それは、過去と未来への洞見がそもそも人間を動物から区別するのと同じ性質のものである。よしんばその場合、過去が非難を、そして未来が不安を伴うとしてもである。」(18―19頁)
 「こうしてわれわれは今後永遠に、創造能力の点ではギリシア人の讃美者であり、世界認識の点では彼らの債務者でありつづけるであろう。世界認識の点では彼らはわれわれに近く、創造能力の点では彼らはわれわれにとって偉大であり、異質にしてかつ遠く掛け離れている。そして、もし文化史がこの関係を、事件の歴史よりもいっそうはっきり際立たせるとすれば、文化史はわれわれにとって、事件の歴史よりも優れているとしてよいのである。」(19頁 「序論」の結語部分)
 ここに述べられている発展の連続性、過去と未来の洞察、動物と人間、未開と教養、永遠、債務者などといった言葉から、ブルクハルトの歴史に対する考え方をどう理解したらよいか?ブルクハルトは後々に展開されるポリスの歴史的発展の記述において、明らかに「進歩」の観念を否定しているように見えるからである。
 「たぶんこうも言うことができよう、一般にポリスにおいては―フランスの国民議会とまったく同様に―ある決議は、それがばかげていればいるほど、ますます激しく永遠たることを希求し、侵されざることを望むと。ただわれわれには、それだからといってポリスを断罪する権利などないといってよい。なぜなら今のわれわれは、進歩の名において次代の人々に対して負債を負わせるという、いっそう愚かしいやり方で未来を拘束しているからである。」(339―340頁 第二章第二節7「アテナイにおける民主制とその形成」から)
 つまりギリシア時代は、個人や市民ではなく国家的形態にあるポリスが、あらゆる事柄の善悪とそのことの将来の先までも決める主役として行動した。しかし、このことについては、現代人もまた「進歩」という観念でもって後世に負債を課そうとしていること―親の時代よりも子は幸せにならなければならない、将来は今よりも良い世の中でなければならない、といった義務や強制を後世代に負わせる観念のこと―を批判しているのである。
 だがこの考えを極端におしすすめるなら、一種の懐疑思考におち入り、歴史に慰めを求めることはできても励ましを得られないことになりはしまいか?
 したがってここに出てくる「発展の連続性」と「進歩」の関係が問題となり、よくわからない点である。
 ブルクハルトは、まず変化の意義は認めており、ギリシア人が達成したものの発展を完全化するのはわれわれの義務だと述べる以上、われわれに何事かを為すことを勧めているようだ。しかしだからといって、当然に歴史がたえず過去から未来へと法則的に進歩してゆくものだと考えるべきではないと、言っているように思われる。なぜならば、現代のわれわれがギリシア人に及ばないところがある点からも、そのことは明瞭だからである。
 「<…>彼らは、その創造能力によって本質的にはこの世界における天才的民族でありながら、そのような民族のもつあらゆる欠陥と苦悩を抱きつつその姿を現わしているのである。あらゆる精神的なものにおいて彼らは限界に達してしまっている。人類は少なくともこの業績を承認し、自分のものとする以上、この限界まで達せずに済ますことは許されない、たとえ人類がその能力の点でもはやギリシア人たちに及ばない場合であってもである。そもそもギリシア民族が後代のあらゆる人たちにこの民族の研究を課することができたのも、この点にある。」(18頁)
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 なおこの第一巻の「訳者後記」―『ギリシア文化史』の成立と評価―において、新井靖一・早大教授(1929年―)が解説を書いている。
 それによれば、『ギリシア文化史』が出版以来、専門家から様々な毀誉褒貶がなされた中で、本書が「いまなおギリシア世界の総合的考察と称するに足るほとんど唯一の著作としての地位を失っていない」普遍世界史的著作の典型たりえているとして、「あの古くならない書物の一つなのである」と評価する。その理由として、ブルクハルトの歴史観が示す「類を見ぬ深刻性」、「厳しく素直な人間観」、「叙述方式の独自性」を挙げ、「文化史の有するべきあらゆる重要な問題を提示し、また潜在力として内包することにより、普遍文化史を目指すものと言える」と評価をする。(513頁)
 訳者はまた、『ギリシア文化史』(1872―1886年講義、1898―1902年出版)と同じ著者の『世界史的考察』(1868年講義、1905年出版)とは「双子」の関係にあるとする。
 『世界史的考察』においてブルクハルトは歴史をどのように論じているか(エッセイ710号参照)
 ブルクハルトによれば、歴史とは事柄を優劣においてではなく同格に論じることであり、歴史は歴史哲学(ヘーゲル)のように過去の事柄を原因・発展・未来への図式で考えるのではなく反復して起るものである、歴史においては事柄を恒常的なもの類型的なものにして捉えることである、という考え方をする。また、歴史は「非科学的な学問」であると断言している。歴史的概念は流動的、未決定な形で言い表されなければならないとする。いわゆる「歴史哲学」の考え方とはちがって、変化することの方が問題なのではなく、同一性と類似性に関心を向ける学問だとする。
 このようなことから、進歩史観の問題や、過去の歴史事実の意味に対するわれわれ現代人の能動的な身のおき方はどうあるべきか、が問われるのである。
 「進歩」という概念について言えば、とくに科学技術の分野では他に群を抜いて「進歩」してきているように人間の眼からはみえる(エッセイ1147号「技術と歴史の関係」)。科学はますます人間にとって、膨大、迅速、広汎、明瞭、強力につまり進歩しながら人間により便利に役立つように映る。かと言って産業革命以降の各時代をふり返っただけでも、人間がその通りに幸せの程度を進歩させているわけでもなさそうだとわれわれは感じている。

(2016.4.29 記)