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イッセイエッセイ

1153号 吉川英治の都会からの都鄙問答

2016年04月21日(木)

 吉川英治(1892―1962年)の小説は短いものを数篇(新編忠臣蔵の磯貝十郎左衛門『琴の爪』など)読んだきりであるから、大それた感想は言えないが、ともかく軽快感があり印象を強調した文体のものと記憶する。昭和50年代後半に出版されている講談社版吉川英治全集は、実に全53巻からなる大部であり、大衆小説という理由からだけでなく、一時代後の我々にはなかなか挑戦しづらい。
 吉川英治は小説作品によって勝負せんとの心構えがあったらしく、随筆の類いは文量が少なく、全集の第52巻目(『草思堂随筆』折々の記)があるのみである。昔の小説家の随筆だけを選んで読むのは邪道なのであろうが、小説よりも随筆の方から直接参考となるメンター的な文章に遭うことが、経験からいって意外と多いのだ(エッセイ231号では獅子文六(1883―1969年)が戦後の「東京問題」を論じていることを書いたことがある)
 地方創生との関係で、吉川英治が都市と地方のことを何か書いていないか、この第52巻一冊にざっと目を通したところ、次のような文章(傍線は小生)が目に止った。吉川英治と獅子文六、二人の作家は、出自や経歴はずいぶんとちがうが、活躍時期と出身地(神奈川)、また流行作家であったところはともに共通している。
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 まず『草思堂随筆』(昭和10年刊)から抜き出してみる。
 「封建政治といっても、いい所はあると思う。中央集権の弊が極端にあらわれて来た今日ではやはり昔の藩制度などには、今日にない特徴があったと思う。
 藩風というものの下に、地方文化が一団ごとに厳存して、常に隣藩に対して、下らない襟度きんどを持っていたなどもその特徴であろう。<…>武士道といっても、佐賀は葉隠を持ち、赤穂浪士は山鹿の士道をもち、おのおの特徴のある人文を持って『わしが国さ』を競っていたかたちである。
 現代の郷土は、精神的に空っぽである。思想は愚か、小原ぶしやおけさ節や、娘まで都会に捧げてしまって、その代りに生活苦の百姓家の軒端で、鼻ったらしの子が謡う…<…>
 どうにかならないものかしら、中央集権文化の殷盛いんせいはもとよりよみすべきだが、急速な近代発達は、都市と地方とにおいて、現状では跛である。封建の精彩や物質はないまでも、音楽や美術や文芸の恩恵を、地方にもっとあらしめたい。<…>
 原稿が売れなくなっても、何でもかでも、文士は都会にいなければならないという理屈はない。故山に帰臥して、老軀を地方文化のために終るなども、いい晩年ではあるまいか。」(「草思堂随筆」昭和10年刊から『郷土文士』全集11頁)
 戦前の時期ながら中央集権という言葉を明瞭に使っているところは頼もしく、また都会に良いものを取り上げられて地方の文化がすたれ、貧しさだけが残っている「ふるさと」に同情するところはわるくない。なつかしむ藩政時代の文化のきそい合いは、現代の観光などの自治体競争に類似したところがある。シニア世代の田園帰郷も現代の介護問題に通ずる考えである。
 「偶々、東北地方の凶作が社会の関心をひいて、娘をうるなどいう事が問題になったが、今度の凶作飢餓が起らない数年前から、農村の娘が、農村を見すてて、畑に若い女性がだんだん減ってきたことは事実である。
 統計が示しているし、都会のキャッフェーや、職業婦人の求職者に、それが多いのでもわかる。尤も、今度の場合のように、売られて来るのではないにしても、農村から女性が去るということは、重大事である。凶作と不凶作にかかわらず、また、売るとか否とかにかかわらず、平常の場合として考えたい。
 一旅行者として、稀に、農村に立つ僕等にしてさえ、田や畑に、元のように若い女性の色が見えない時は寂しい気がする。決して詩人的詠嘆ではなく、農村の前途のためにかなしむ。
 そんな時、独り思う。
 農村の女性が、農村を去る一つの原因には、青年にも、一面の責任はありはしないか。農村の青年に、彼女たちを郷土に止める力が足らないことも幾らかの原因にかぞえられよう。特殊事情の下に、都会へ出る女性はべつとして、漫然と郷土を離れて、都会の酔っぱらいに、故郷のつまらなさを訴えているような女性を村から出すことは、あまり郷土の名誉ではない
 すこし、極言かもしれないが、郷土の恥辱といいたい、青年の恥辱とされたい、処女会などこういう問題をどう見ているのか。」(『郷庭の友へ』全集51頁「草思堂随筆」から)
 この一文には、凶作、人身売買、処女会、キャッフェー、職業婦人、青年の恥辱、田や畑の女性の姿etcなど現代の日本では全く見られない、或いは考えられないような時事用語と思考法が出ていて、かえって参考になる。農村青年の責任や郷土の不名誉にされるのは困った誤解だが、しかし現在、大都市への女性流出が加速化している現象だけは共通である。そうなると今日では使わずふさわしくない言葉に代る現代用語を見つけ出して解決する必要がある。
 その他『草思堂随筆』(昭和10年刊)の中には、都市・地方というテーマとは離れるが参考となる文章あり。
 『議会を観る』(50頁 言葉だけ抜き出した)―半分以上が空席、出ている人々も半眠、半醒といったかたち、議員はもっと文章を勉強して貰いたい<…>
 『史実ナンセンス』(82頁 同上)―ほんとの、実話というものは、ありえない、小説はすべて空想が本則、史実も考証ものみこんで書いている与太はおのずから一見してわかる<…>
 『心の友』(129頁)―「長谷川伸君は、岡本綺堂氏に会うと、よく温良な談話のうちに、それとなく、処生しょせいの短所を教えられるといっていたが、その長谷川君から、僕はよく、やはり先輩らしい砕けた話しぶりのうちに、処生の短所を、教えられる。で、僕は、こんな機会のあるごとに、長谷川君と、椅子を隣りにすることを、有益な時間として、いつも楽しみに思う。益友というものは、たんとはいない。心の友というものは、なおさらいない。」
 戦前の国会見学の感想だが、現在よりも調子がよさそうではない。歴史が真実、万能でないと考えている。
 「処生の短所を教えられる」というのは良い言葉である。長谷川伸の股旅物に登場する例の番場忠太郎、鯉名銀平、沓掛時次郎といった人物像にも作家(長谷川伸)の気性が反映しているのであろう。

(2016.4.17 記)

 継いでの随筆集『窓辺雑草』は、昭和10年頃から13年にかけて書かれている。当時は経済統制下であったが、こんな閑文字を出版してくれることは勿体ないと思うと、序文で作家は述べている(昭和12年に吉川英治は再婚している)。その中からいくつか抜すいする。再び、江戸期と当時(戦中)の比較による地方文化の振興を論じ、大衆小説の役割を主張している。
 「昔の封建制度というものの中にも、文化的に非常にいい所があったように思う。今日は余りに都市中心になりすぎた。都市中心、中央集権になり過ぎた文化の下では、文学、美術、工芸、個々の僕達の生活の細かいものに至るまで、総てが都会のものでないものはない。<…>今日のおけさ節は越後のものでない。小原節にしても小原の郷土のものではない。あれは東京の歌になってしまっている。古くから持っている各地方の郷土的のいいものは、各戸に伝わっている固有の美術に至るまで、皆中央に集められてしまった。そして各地方にも最も幼稚な印刷物だの、安っぽいレコードだの、そういったものしか還されていない。だから地方に於ては、文化が封建時代よりずっと低下していると見ても誤りではないようだ。即ち都会だけが爛熟して、一つの脳充血みたいな形になっている。漢方医にいわせると、頭寒足熱というのが健康体だというが、日本の文化の姿からいうと、今は頭熱足寒になってしまった。<…>由来日本の国民性というものを見ると、郷土愛と、それから僕達にいつまでもいつまでも繫がっている歴史性がある。この二つを破壊しては日本の国民性というものはほとんど成立たない。だから一つの人物を見ても、歴史を見ても、郷土色というものが非常な影響を与えている。今日の文学というものが、進歩的な文学に鋭敏であっても、そう云ったものを持ち得ない。郷土的な国民性と何かアッピールを持たないということは、非常な欠点だと思う。―大衆文学の総てということは、とても云えないが、少なくとも大衆文学のやや々優れたものと、常に心懸けのいい作家というものは、郷土性、所謂郷土文学というものには、関心を多分に持っていると思っている。そこにも僕は大衆文学の特殊性があると思っている。要するに、今日の大衆文学というものは一方、反省の文学であると同時に、郷土的なものでありたいという事を僕は望んでいるものである。」(『郷土の文学』全集144―145頁「窓辺雑草」(昭和13年刊)から)
 再びよく似た表現で、地方がないがしろにされている事態を憂慮している。日本の国民性のあり方とその反省は、郷土愛から見るべきものであり、大衆文学がそのための存在意義をもっているというのである。
 現代小説(純文学)が、都会的な比較的新しい文化の要素の中に生活している読者に支持されている一方で、時代小説(大衆文学)の方は文化や進歩の中に正しい反省をもち、過去が有していた本質的なものを見失わない堅実な進歩を目ざすものであり、衰弱し末梢になりやすい生命力に対し時代小説は逞しい甦りを与えるためのものである、と吉川英治は考えている。(『現代小説と時代小説』全集146―147頁 昭和12年)
 郷土(史)というものは現代小説において置き去りを食っているが、時代小説においては郷土と密接に関係しており(舞台となる江戸時代の文化がそうであるからか)、それは決して低俗ではなく、読者の共感と支持を得ることができるとし、国民感情に議論が及ぶ。
 「都会文化の中に住んでいる都会人にしても郷土の話、それから自分の父母系の祖先の話、そういったことになると誰でも一とくさりのロマンチックなまた誇りに近いような追憶をもっていて、現実の中にある自分とのつながりをかなり濃厚にもっていないものはないと思う。」(『地方文化と郷土愛』全集148頁)

 以下、文学論・読書論、また二・二六事件のところが断片的に目に止ったので記す。
 『僕の書くもの』(全集138頁)―「僕の小説を書く場合は何時も希望的であり積極的であるということがほとんど原則だ。なぜといえば今、大衆文学を読む人達の―所謂大衆の中に一番欠けているのは何かといえば希望と信念だと思う。<…>夕刊や雑誌の小説が虚無的な、消極的な、或いは自暴自棄といったような小説であったら、それは決してその人の興味にも、心の糧にもならない。だから自分は何時でも希望的であり、そうして明るいことを心掛けている。」
 同じく大衆小説作家の源氏鶏太も自分のユーモア会社小説(三等重役、英語屋さんなど、80本が映画化)を現実には稀であるが故に勧善懲悪型で描いたと述懐している。
 『2・26事件とその聯想』(全集139頁)―「この間の2・26事件、あの事件のとたんに僕が大衆作家としてすぐ考えたことは、今日の時代は歴史の上から見て、どの時代に似ているかということであった。ある人はすぐ維新当時のことを聯想したけれども、僕は応仁の乱当時の時代をすぐ聯想した<…>
 あの時代の型は、中央集権的である。室町幕府を中心として<…>室町幕府というものに安住して、爛熟した文化の中に人材が集っていた。その結果一つの文化の行き詰まりを生じて来て、自ら中央集権的文化を灰燼にした。その結果は人材は中央を見捨てて各々野に帰っている。そうして野に帰った人材が中央を中央としないで、各々の分野の中に人を養い文化を作り、自分達の次の時代を考えて準備したのが、やがて次に来る戦国期<…>残存物を一掃し、革新的な芽をふいて行ったという傾向を考えて見ると、今日の時代文化と相通ずるものがある。<…>」
 二・二六事件の勃発当時、吉川英治の居宅は襲撃された高橋是清蔵相の隣家であったということだ(巻末解説・松本昭教授)。「叛乱軍」の東北農村の兵隊に素朴に同情して首相官邸に行き差入れをしたというやや解釈の分かれる行動をとった。
 後年の随筆(『霜庭春語』全集363頁「折々の記」昭和28年刊から)の中に
 「よい老人のよい顔というものは美人よりもむしろ印象的である。いくつかを思い出すことができる。何かの用でぼくのタクシーが帝大前の電車道を横断しかけた。すると線路を越えかけていた老人が自分の外套のすそで可愛い孫を抱えながら、ぼくの載っている車へあわてて手を振った。その老人の顔がじつに慈愛にみちたいい顔であった。それから二カ月程たつと、新聞に大きく同じ顔の写真が出ていた。二・二六事件で殺された高橋是清氏であった。あんないい顔を短銃で撃った人の気がしれない。」
 二・二六事件の際にとった作家の行動とは、一体どういう関係にある文章なのだろうか。
 『作家たらんとする人に』(全集145―146頁)「いつも云っているのは、結局において勉強するということだ。僕はよく本を読むといわれるが、しかし新たにする仕事のすぐ役に立てるために本を読まない。人が見たら、こんな忙しい場合に何だって縁もゆかりもない本を読んでいるか、というような本しか読んでいない。<…>例えば、ある小説を依頼されたという場合に、それを書く為、それを調べる為急に旅行するという人がある。あれなんか僕はおよそ意味はないと思う。<…>興味をもって読むということでなくてはいけない。<…>それだから僕は割合に努力しないで面白かったなと思うだけで、それがいつか役に立つ。<…>それから今の人は根気が足りない<…>」
 『作家の世界』(全集141頁)―「僕は作家という立場からすると、歴史は非常に忠実に読む。忠実に読み、尊重もする代りに、同時に歴史というものを、何というか、軽くも見る。というのは歴史の総てが真実でないということと、これはやはり人が書いたものである。歴史家は色々な場合に総勘定をしたがる、決算報告をしたがるという点からである。例えば<…>大阪落城の次のページをめくって見ると、もう徳川幕府の時代になっている。<…>平家の一門が滅んだというと、もう次のページからは源氏全盛の時代で、その間の移り行く世相というものは何も書かれていない。<…>大きな余白が僕等作家にとって最も面白い所なのである。ところが歴史家はここは厄介だから口を拭ってしまう。」
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 『折々の記』(昭和28年刊)は、戦後しばらくしての随筆集である。面白い話しが沢山入っている(ようだ)が、その中で奇妙な題名に引かれて読んだのが『里子村』という短い文、これも都市と農村論なのである。
 作家がたまに奥さんと散歩すると彼女の方はすぐ通りの店舗に入って買物をしだす(昔は金物店に文化かまどつまりヘッツイが売っていたようなことも書いてある)。その間、裏通りで待っていると、トラックの下で子供たちが乾いた土をちつけ合っている。都心には緑地をしらぬ子供の数は多いと述べ(昔の漫画には土管を積んである空地の遊び場の場面がよくあったが)、この里子村の話に及ぶ。
 「新潟県のどこかに、里子村というのがあったと記憶する。子供のため、親も働きよいため、里子制度を、もう一ぺん、近代的な要意(ママ)と理解のもとに、考えてみてはどうだろう。(…作家の弟も根岸村というところに里子にあずけられたことがあるようだ…)大都市から二、三時間の農村や漁村ならどこでもよい。まじめに、考究してみては、どうだろう。都会の親たちも、きっと、共鳴するのではあるまいか。里子村は、子のためばかりのものではない。親の生活も健康になると思う
 麻雀、競輪、昼寝などに、つい過しやすい休暇の一日を、前の夜から、子どもの好きな物など揃えて、夫婦して、田園の子に会いにゆく。夫婦生活を詩化するし、二人の倦怠にも、オゾンを吹きこむにちがいない。
 これは、政府がやってもよいことではないか。農漁村のうけ入れ側も、見てくれの衛生や、経済的打算だけでは、親として心もとない。問題は里親の愛情である。愛情があって、美しい村。それができれば、都会と田舎とのよい文化交流にもなる。」(全集282―283頁)
 古めかしい言葉、なつかしい風景、一方で今でも通用する斬新な言葉の混在などあり。しかしこの「里親村」のこと、当時から十年ほど前なら「疎開」を連想し、今ならホームステイの現代バージョンになるのだろう。しかし、こうしたアイデアは如何にせましな。
 「私はつねにこの都市文化と地方文化とのひどくかたよった隔差が心に納得いかないで仕方がない。どうして日本はややもすれば畸形きけい跛行はこう文化に走るのだろう
 都心、たとえば東京を例にとると、東京から自動車で三十分、あるいは四十分も外に出ると、もうそこの地方村落や小さい町には、東京のネオンの海とは余りにも谷底を隔てたように落差があって、今日の文化には恵まれないものがたくさんある。都心の下層部もまたそうだが、もう都会中心の爛熟らんじゅくは、このへんでたくさんだとさえ思いたくなる。これ以上はまあ道路でもよくすればだ。消費文化の面はそろそろおいて、あとは地方文化の未開拓面に国力やお互いの総意をそそぐべきではなかろうか。旅行して地方の田野や山間の余りに今日から遠い人々の生活にふれるたびにいつもそれを痛感する。そして草ぶき屋根や荒ら壁の部落でそこの人々の生活とはまったく似つかないジャズや歌謡曲の流れなどを聞くとき、不調和な滑けい感を覚える以前に、何かこの国の文化なるものの在り方がかなしくなり、私が地方人なら腹が立ってたまらないだろう。<…>
 終戦後、長足な復興と見える復興も、じつはまだまだ健全な文化の発展とはいえないのだろう。都市偏重の、それも恐ろしく早いテンポで爛熟して来たこの末期相文化は社会史的にみても危険でさえある。政治はもとより、われわれ文化人も働きかけて、もっと広い全土にお互いの文化を作用し合って幸福を分け合う、それがきょうの文化の日に思うことである。」(『文化の日』昭和35年全集所収「折々の記以後」から443―444頁)
 都市と地方との「落差」を吉川英治がこのように描いた1960年は、岸内閣による安保条約改定が行なわれ、池田内閣が成立して所得倍増計画が始まった年であった。テレビも十分普及していない時代であり、田舎の人達が格差ありとは、それほど感じなかったかもしれぬが、東京の目から見れば周辺の地域との差は歴然としていて、アンバランスを感じるだけなら論じて嘆きやすい話題であったことだろう。ここでは特に生活水準や文化の恩恵が比較され、問題とされている。現象的には、ネオンの海と草葺屋根、田舎民謡とジャズという対比であり、今日から見ればユーモアの漂うノスタルジックな話題である。「夜霧の第二国道」(フランク永井)が、つらい恋ならネオンの海へ、捨ててきたのに…と道路名を歌詞にした歌をうたったのもこの頃である。
 その後の開発計画の中で国土均衡、地方分散が唱えられ実行もなされたが、1990年代以降は市場主義的となり集中に対しての批判は忘れられてきている。それから半世紀余、結局のところ何が変り(解決)、何が変らず(未解決)、何が生じているか(新課題)…。衣食住の豊かさ水準は均平化しており、地方の文化も尊重され、むしろ消費の対象とされる時代になった感はある。しかし一方で、富の総量が限りなく肥大化し、市場性のある情報や知識などは増々一極集中化し、地方の持つ価値はその場限りで利用され手段化されるようになってきた。

(2016.4.16 記)