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イッセイエッセイ

1151号 昔の時代、今の風潮

2016年04月18日(月)

 ギリシア時代について、現代の目にも感じられる万事の明瞭さ、力強さ、潔さなどをもとに、当今のもろもろの不都合や不徹底さを論じられると、実に分りやすく説得力をもった主張となる。田中美知太郎の随筆は30~40年も前のものであるが、実にその感を強くする。
(人間の平等)
 「いわゆる五十歩、百歩の差は、達観すれば何でもないことになるかもしれないが、人間の普通の生活では大変な相違なのである。人間は平等であるというようなことを、最初に教えこまれ、そう信じこんでいると、人間の平等でない事実は、ことごとくこれに逆うことになる。」(「人間は平等でない」昭和50年 田中美知太郎全集第15巻随筆集)
 現代は「格差」という用語が急に幅を利かせはじめ、「不平等」とはなぜか直接には言わない。物事の動かぬ状態ではなく変化を求める視点で大体が論じられる為だと思われるがその由来は何か。論点がやや極端な不平等(絶対的相違)を対象にしたものか、それとも微妙な不平等(大小の差額)を相手にしたものかの違いがあって、「格差」は仲間内の議論なのである。
 「われわれはむしろ<人間は平等でない>という事実認識から出発して、それが人間の実生活に、あまり大きな損得の差別を生じないよう、別種の平等を工夫すべきであろう」と著者は論じ、ギリシアの歴史家ヘロドトスの伝える異国の話として―婚期の娘たちは市場でせりにかけられ、美女についた多額の金の一部は別に保管され、買い手のつかない娘の持参金に廻され、金銭において解決された例―を比喩的な説明にして挙げる。(同続)
 今日は県立図書館で婦人会総会があり、帰りに久し振りで「白川文字学」の部屋を見学した。ちょうど白川博士のビデオが流れていた。そこで先生はおそらく古代中国の話と思われるが、ある村落から他の村に嫁を出した場合、その見返りとして自分の村に逆に嫁や婿を同数もらって出入を平衡させた、というような旧慣を話しておられた。

(花は花、花は紅にあらず)
 防衛費1%以内を必ず守ることを政府当局者に対し答弁(宣誓)を強要し、同じ答弁に対し審議中断をくり返している国会中継を聞いて、「むかしアンティステネスという人があって、言ったり考えたりすることを、AはAであるというような同語反復だけに限り、それ以外を不可としたということが伝えられている。(同15巻「委員会審議を聞いて」昭和60年)

(文明なくして文化なし)
 「文明は都会で、文化は田舎だと言えるかも知れない。フランス人は文明を言い、パリを中心とした中華の考えをもつ。これに対してヨーロッパの田舎者であり、地方分権的だったドイツ人は、むしろ文化を主張する。<・・・>それはカトリック的な普遍性、客観性に対するプロテスタントの主観性、個別性の自己主張ともとれるだろう。だから一面からすれば、あらかじめ文明がなければ文化はない。」(同15巻「日本文化への願い」昭和45年)
 「文化は文明に対する対抗概念であり、その限りにおいて、かえって文明を予想する消極概念であるとも言われるだろう。われわれにおいても文明開化を謳歌した明治というものを、一時代さきにおいて、それにつづく大正時代の好みによって、文化というものが受け入れられたという事情を、あらためて考えてみなければならないだろう。」(同上)
 最近インフラの整備がある程度目鼻のついた地方が文化投資しようとする動きがあるが、それは普遍性に欠ける一種の田舎的な意識から来るものなのか。地方にしかない普遍、或る地方にしかない小文明が果たして有りうるのか。

(知恵ある者こそ富める者)
 「ソクラテスの祈りにもあるように、所有とわたしたちの内実のバランス、つりあいが大切なのである。所有が有用となり、実際わたしたちを幸福にするためには、わたしたち自身が心ゆたかでなければならない。しかしせっかく精神の内実があっても、これを外にあらわしこの世をよくすることができなければ、まだ可能性や主観性の満足に止まり、ほんとうの幸福とは言えないことになるだろう。」(同15巻「ゆたかさとは何か」昭和45年)
 このソクラテス的な幸福の考え方は、境遇に恵まれている客観と人間としての心懸けの良さ(主観)との均衡を求めているらしいが、それは両者のバランスに眼目があるのではなく、主体側のふさわしい資格があくまで出発点となるのであり、客観の方がこれに従属的に程度を応じるものなのであろう。

(2016.4.16 記)