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イッセイエッセイ

1146号 雑想(15)

2016年04月16日(土)

(歴史主義の問題)
 ギリシア哲学者の田中美知太郎は、『現代歴史主義の批判』(昭和38年 全集第6巻所収)において、「歴史主義は今やわれわれの時代の病いではないか」と話を切り出している。
 デイルタイ、トレルチ、マイネッケなどドイツの学者が自覚的に取り上げた「歴史主義」に対して、ニィチェの「反時代的考察」に同調しようとしているのである。(同全集第6巻247頁)
 そして歴史主義に批判的な二人を紹介する。
 カール・ポッパーの「歴史主義」は、「歴史進化の基底に法則を見出し、それにより歴史的な予測を行うことを目的とする」と定義したうえで、「科学的方法もしくは他のいかなる合理的方法によっても人間の歴史の将来を予測することは不可能である」と、歴史主義を否定する。
 ルートヴィヒ・ミーゼス(オーストリア学派の経済学者)は「歴史主義」というものに関して、「時、所、人種、国民性、文化などから独立な、普遍妥当性をもつ規則を探し求めるようなことは、時間の浪費だ」として、この観念を理解する。ミーゼスは「社会学や経済学がわれわれに語り得ることは、すべて歴史上の出来事の経験なのであって、それはまた新しい経験によって無効にされうるものなのである。だから社会科学に適当した唯一の方法は、歴史上唯一無比のことがらをその特殊性に即して理解するということだけなのである。知識はある一定の時期、あるいはそういう時期のいくつかにまたがるのがせいぜいであって、それ以上のものをもつ知識というものは何も存在しないのである」と考えている。

(外形と中味)
 外形と内容は往々にして別々である。これは物に対しても、あるいは人に対しても、我々はこういう別々の見方をして価値を決めたりする。
 とくに人の場合には、昔から言われるように、中味は最終的には分らないままのことが多い。それでは分ると感じる外形とは一体、どういう出来上りのものなのであろうか。それは人でいえば、その人の発する言葉であったり、目に見えるしぐさや動作であったり、直接ないし直接の方法で全体として受けとることのできる一連の繋がった形の印象である。
 こう考えてゆくと、今度は元の中味の方に戻ってしまう。外形のほかに何か内容としてまだ残っているものが本当に有るのか、何か隠されたままに見ないものがあるのか、の疑問がわいてくる。
 こうした事をいったりきたり繰り返し、人を簡単に誤解したり信用したりするのが人間の常である。外形と内味の区分けといっても結局のところ、ある人が持っているらしい分らないままの真意とその他もろもろ表面に表われた言動を、やむなく一緒にして動揺しながら判断しているにすぎない。
 したがって、外側と内実を分けて見ようとする習慣は、人間の興味を満足させたとしてもそれほど役に立つ物の見方ではなく、たいてい本当のことを見つけ出すことに失敗することになる。むしろ外形こそ内味である、という例の哲学に帰着した方が楽である。

(ものは目的を有する)
 私たちが行動するときその行動は目的を持っており、当然に行動する以上この目的ははっきりしている。しかし同時に、その行動には他の小さな目的が自動的に付随している。つまりわれわれの意図と離れて、行動そのものがみずから別の目的を自ずと持っているのである。
 仕事で精を出してあちこち身体を動かしている人は、物を運んだり周りをきれいにするために働いているはずだが、同時のその行為はその人の身体を適度な運動に導いている。こういう体の動きをあまりしない人は、わざわざ健康のためといって毎日散歩をすることになる。そしてまたこの散策という行動が、客観的に別の目的を有していて、あたり周辺の環境美化や治安、交通安全に役立っていることになる。
 科学発明における「セレンディビティserendipity」(思わぬものを偶然に発見したり、幸運を呼びよせる力)も、研究があくせくと目指しているものとは全く違う貴重なものが、偶然の大発見として浮かび上ってくる。これは研究者が注意をしていたというより(このことも大事だろうが)、むしろ研究対象が元々有していたものを、人間に教えてくれたのである。
 そういうふうに自分に言いきかせるなら、いま精を出している仕事はもちろん、家事雑事など面倒に感じる些細な仕事も、投げやりにならないように丁寧に行なわなければならないと自分に言いきかせるようになる。自分がそのものの為にする仕事は、その仕事の中に宝を宿しており、別の祝福された儲けものを自分にくれるのではないかと思いたい。

(前後関係)
 物の前後関係は、人間社会を例にとっても極めて重要である。先憂に後楽あり、残りものに福来たる、最後に笑う者がよく笑う、などと逆説めいたこともあるが、ふつうは前が後よりも優位を得る。
 先取、先占、先駆、発明、創業など早いものが勝つ世界が一般である。われわれの感覚に訴えるものも、先に受ける印象の方が次に来るものよりも強い。刺身の値段を298円とするスーパーラベルも数字の前後を重視している。
 今日の4月1日、県庁職員の新採用の辞令交付式が行われた。133名の若い男女(この言葉の前後も気になってくる)の氏名(これも)が読み上げれら、一人ひとりが返事をしていくのであった。通常は聞きながら苗字の方に関心が先にゆくのだが、今日は名前の方に関心を向けてみるとずいぶん感じがちがっている。これがジャック・ジョーンズの国では反対の印象になるのだろう。ファースト・ネームで組織の先後輩が呼び合うのは、語順からいって日本では違和感が生じてくる。もし日本でも名・氏の順に変えるならば、先に名の方に関心が向くので、あれほどユニークな名前はおそらくつかないであろう。

(昔のことと今のこと)
 歴史ほど教えやすい学科はないのではないか、と世界史の先生に言ったら、そんなことは決してないと言われた。
 数学は難問を解かねばならない、英語は聞くだけでは済まされず話せなくてはならない、理科は物事の原理の説明がむずかしく、実験もいる、国語は教材が限りなくあり沢山本を読まねばならない・・・と言っただけでは、歴史が教えやすい学科であるなどと説明はできないようだ。
 歴史に学ばぬ国は滅ぶ、歴史をあと戻りさせてはならぬ、近現代の歴史教育を重視せよ、両国における歴史の共有化を目ざす、世界史と日本史を融合すべきだ<…>等々
 歴史は、今やともかく重要な知識分野となり、学ぶ意義極めて大との風潮である。
 歴史がなぜこんな人気があるのはなぜだろうか。地球表面の学問である地理などはもっと大切で、旅行の際に欠かせない知識であろうし、地図を読みまちがったり、仕事において道に迷ったりしては話しにならないはずなのだ。南半球では魚のカレイは左向きであるなどと思ってはならない。
 何事についても、昔はこうであったが今はああしてこうなったのだ、という説明は他の理屈よりも説得力があるように人間には感じられ、この人間の頭の働きは不思議なことだ。また神々の力強い時代よりも現代の平凡で柔和な我々の方がより進歩しており優れている、と自分たちが信じているのもおかしなことである。
 しかしまた一方、今でなく明治時代に生きてみてはどうか、と言われてもお断りするであろうし、自分が考えたり行ったりすることが、先輩の肩の上に乗っかっているからこそ出来ると思うのも事実である。そして昔のことを知るにつけて利巧になったような気がするし、又うれしい気にもなる。

(2016.4.1 記)