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イッセイエッセイ

1144号 ソフィストとは誰か(その2)<1136号から続く>

2016年04月12日(火)

第五章 その時代 全集第3巻(50―66頁)(続き)
 ―アテネの富裕な青年たちがソピステスを求め、またアテナイに各地からソピステスが集まってきたという事実は、アテナイの内政事情だけでは十分説明がつかない、と著者・田中美知太郎は言う。
 関連して、下村寅太郎の「科学史の哲学」には、次のような見解が見える(エッセイ第743号参照)。「ギリシアの哲学者と立法者とポリス市民は一致している。しかしソフィストは都市を巡回する者、懐疑者である」。(傍線に続く文章は小生、下線も。著書からの「引用」及び要約は小文字にしてある。)
 「ここにおいて、アテナイの国際的地位というものを考えてみなければならない。それはペルシア戦争とともに重大な変化を遂げたのである。」(60頁)
 ペルシアの勢力を駆逐した殊勲者であるアテネを中心としたデロス同盟の成立によって、アテナイ海軍の保護をうけ各々の都市は年々献金をし、アテナイと同じ政治体制(民主制)を流行的に採用するようになり、重要事件はアテナイの法廷に訴えるようになって、各都市はほとんど属領のごときものになる。
 「アテナイは、アッティカ一国の首都ではなく、その数約265から300にも上るデロス同盟諸国に君臨する大帝国の首府となったわけである。しかもその支配は空虚な軍事的支配や形式的な政治的統治に止まるものでなく、さらに経済的文化的なものであった。同盟諸国の献金はアテナイの主要な財源であり、各地の産物はアテナイを中心に集配されたのである。」(61頁)

 ―既視感のあるどこかの国の政治的、文化的構図ではないか。ギリシア人特有の競技意識によって、互いに優越を願うアテナイ青年たちがおり、進取に富み繁栄する活気ある国際都市アテナイへと同盟都市出身のソピステスたちが各地から続々集まってくる活況も納得できることになる。著者が引用するトゥキュディデスのアテナイ描写は次の如し。
 アテナイ人は機敏な工夫家で、新奇なことを好み、思ったことをすぐ実行にうつし、力量以上のこと、思案外のことでも思いきって断行し、危険のうちにあっても楽観する。彼らはたえず何かを得ようとしているから、今あるものでは決して満足することがない。彼らの考えでは、なすべきことをなすよりほかに祭日はないのであって、何もせずにじっとしていることは、どんなに忙しい労働よりも呪うべきことなのである。約言すれば彼らは自分自身もじっとしていられないし、また他人をじっとさせておくこともできない生まれつきだと言ったらよいであろう。(トゥキュディデス)」(65頁)(下線は小生、以下同じ)

第六章 徳育(67―80頁)
 「ところで、人間として、また国家の社会の一員として、すぐれた者になることを求める青年たちにとっても、また、そういうすぐれた人を作るというソピステスにとっても、あらかじめ解決を必要とする重要な問題があった。それは何であるかといえば、すぐれた人というものははたして作られるものかという問題である。」(67頁)
 智徳は教えることも学べることもできず、生まれつきのものではないかという根本問題である。たとえばアテナイの国民議会では誰でも国事(技術的、専門的なテーマをのぞいて)を論ずることができたという事実、これは何故か、アテナイの偉人たちでも子弟の教育に失敗していたことが多いといった厳しい実例、要するに「徳育は可能なるか」の問題である。(70頁)
 プラトンの『プロタゴラス』では、徳というものは教えられ得る、と積極的に主張されている。徳育は、広く家庭や法律また教育における他の学科(父母、教師、国法)などを通じて、同時に教えられてきたと考えられて来た。これは自国語の教育を受けるときに起る事情と同じであった。しかし従来の考えとは違って、ソピステスのプロタゴラスは、徳の教育それ自体を独立して取り扱うことができる、と考えて試みた最初の人だったのである。
 ソピステスのプロタゴラス、クリティアス、デモクリトス、エピカルモスなどは、教育には素質と練習(と時間)が必要であるとし、しかも学習の方に重点をおいた考えを持っていた。しかしながらソピステスの教育はせいぜい弁論文章を手段にした徳の教育以上のものではなく、「徳そのもの」を教育する教師ではありえないことであった。したがってソピステスがどう宣伝しようと、徳育の問題は知育の問題もふくめて、これを有効に実行できるかどうかは断定できず、昔も今も充分に解決がされていない問題だったのである。

第七章 弁論術(レトリック)(81―97頁)
 ソピステスは純粋な徳そのものの教師のはずであったが、実際はプロタゴラスの抱負とはちがって、前章にみるように「弁論の工夫を主とする徳の教師にすぎなかった」。その点では、読み方や音楽の教師も同様に徳の教師と呼べるのであり、またソピステスの説くところの道徳も、内容的に格別新しいものではなく、「昔からの伝統的な道徳」に過ぎなかった。この点を正直にソピステスのゴルギアスは、自分の教えるものは「弁論術(rētorikē)」だけであるとして、徳を教えると約束する人を嘲笑した(プラトン『メノン』から)。ここにいう弁論術というのは「説得術」のことであって、法廷や議会や審議会などの国民的集会において、正邪黒白の論をなす際の技術であった。
 こうして弁論術を教えることを約束するという意味でのソピステスを、他の「弁論家」と区別した特色は、弁論術を「人生の最善最高のものを生み出す技術」であると見なして、この弁論の技術という人間的力量によって自己の自由と国家社会における支配的地位を約束する点にあったのである。このすぐれた人を作る徳の伝授とは、弁論にすぐれたテミストクレスやペリクレスなどを、すぐれた人として念頭においていた。
 アテナイにおいて国民議会や法廷が絶対的権力をもつようになり、これを支配する似而えせ非政治家の扇動的なデマゴーグによって国策の決定がなされた。決定した者たちの方は責任は負わないままに、官職を遂行することとなる司令官や指揮者たちの方が政略の責任を負わされ、国民は似而非政治家の手練手管によって喰い物にされるようになった。
 こうした「劇場政治(theātrokratiā)」(プラトン)の発生により、雄弁と会衆の説得術として弁論術は政治の技術となった。弁論術が成り立った理由としては、ゴルギアスのごとく自分も知らないことを何も知らない人たちを聞き手にして、知っている人(専門家)と論争して知ったかぶりをする手法によって可能であったからである。何が正義や善悪であるかを知る必要はなく、大衆は何を正しいと考えるであろうか(説得的らしいこと)を知っていればよいと割り切っていた。
 ソピステスの目ざした徳育も弁論術も、民衆の因習的無知を基礎としており、正邪黒白を論争した「弁論家」とは一見似たように見えるが、ソピステスの方は真実に対し無関心な点で違っていたのである。
 「すべてのことについて語り、あらゆることを論じたいという要求は、人々の自然の傾向」(93頁)であって、ソピステスのみならず「あらゆる事柄について語ることは、すでに文学作品に見られる事実であって、いわゆる哲学者が、何らかの論理によって天地万象を論じ得ると信じていることは、今日でも珍しからぬ事実である。」
(同頁)
 ―「劇場政治」は最近に経験したところである。パターン化したメディアの報道、ただ評論するだけの者etc。

 「われわれは弁論術が、ソピステスの時代にもっとも人気のある学科であって、それがローマ時代の教養を独占し、ヨーロッパ文化に重大な影響を及ぼしたことを忘れてはならない。」(94頁)
 「そしてわれわれはこの弁論術に対するソピステスの寄与が決して少なくはなかったことを忘れてはならない。それは言論の取り扱いを中心に、文法や詩文の解釈にまで及ぶもので、いわゆる人文教育の基礎はソピステスによって築かれたとも言われている。」(95頁)

 ―著者が本書でしばしば引用する作者不明の「これこれについては両論がある」という書き出し『両論』が、弁論術に関してここでも引用される。
 「例の『両論』の最後の章には、記憶術の注意があって、よく注意すること、同じことを繰り返し練習すること、連想を利用することなどが述べられているが、この記憶術は弁論術の重要な一部をなしていたのである。クインティリアヌスは弁論術を定義して、何をどんな順序でどんなふうに言うべきかを記憶していて、これを然るべき態度で実演する学術であると述べているからである。」(97頁)

第八章 エリスティケー(問答競技)(98―123頁)
 弁論術はあらゆることを論じうるものであるから、長談義ともいえる通常の演説のほかに、一問一答の形の発展形式を必然的に生むこととなり、これが問答法(dialektikē)であり、勝負を争う遊戯として行われるとき問答競技(eristikē)と呼ばれた。エレア派のゼノンがその始祖と認められている。弁論術が人々の胸の中の思い(感情や常識)に訴えて「まことらしく」説得するのに対し、問答法は口舌を制し思考を論証の必然性に従わせようとするものであった。「問答法の実際がいかなるものであったかを知るためには、プラトンの対話篇を読めばよいのである。」
 しかし聴衆を前にして対論する問答法は、その前提や推理に不正を用意して、相手を自家撞着におとしめるということを手段とした、とアリストテレスが『トピカ』で論じている。この代表的な新型のソピステスとしてエウテュデモス兄弟を、同名の対話篇でプラトンも論じている。そしておそらく詭弁家としてのソフィスト概念は、問答法の技能者としてのソピステスに由来するのである。プラトンの後期作品やアリストテレスにおいて、そのようなソピステスの概念が与えられた。そして詭弁としての問答法の社会的な存在根拠が、法廷弁論の実際から発したのではないかと疑われているのである。

第九章 悪名の由来(124―141頁)
 ―この章は全体のまとめである。冒頭のなぜ、つまりソピステスたちの悪名が語られるのは何故かというテーマに戻る。
 「かくてソピステスは、徳の教師であり、弁論家であり、また問答競技家なのであった。彼等の仕事の中心は弁論術であったと考えられるのであるが、その初めの時期においては、徳の教師としての特色の故に、狭義の法廷弁論家とは常に区別されなければならなかった。」(124頁)
 「ソピステスがソピステスであるかぎり、全くの私人であって、実際の政治家ではなかったということをも注意しておく必要があるであろう。」(同頁)
 ―同じ弁論家といっても、テミストクレスやペリクレスは弁論によって実際に国民大衆を動かす人たちであったが、ソピステスは弁論術を個人に教授する者である、と著者は区分している。
 「<…>すでに詩人や音楽家によって取り扱われていた国それぞれの伝統的な道徳を、別にそれが何であるかを問うこともなしに、ただ新しく工夫された弁論術をもって言葉巧みに説くというにすぎなかった。そしてその弁論術なるものは、何が善であり、何が正であるかを深く考えることはしないで、ただ世間の考えるそれらしいものを推察して、ひとを説得することばかり考えるものなのである。それが心に掛けるのは、真実そのものではなくして、ただ真実らしく見えるものだけなのである。」(125頁)
 ―ソフィストを特徴づける重要な要素について、本書でこれまで多方面から文献的に吟味を加えて来たのであるが、かの時代のソフィストとは一体誰であったのかという点は、いぜんとして分明になっていない。たとえば文献に残るような有名な人たちは、単純にはソフィストと呼びきれない、もともと一角の人物であったからだ。またソフィストは、概念であるから一人ひとりについては当るも当らないところもある。哲学者や弁論家や教師の周辺にその種の独特の批判を受けやすい人物たちがいたのは確かだろうけれど、敵対グループが互いにソフィスト呼ばわりをして党派的に批判した関係もある。これは人類の青年期特有のギリシア時代的な現象なのか。いずれにしても価値が混乱し始めた時期の出来事であり、そのことから必然的に混乱と悪名が生まれ、ソフィストの名が歴史的に残ったのか。
 「しかもいっそう悪いことには、彼等は何も知らないで、何でも論ずることができると信じているのである。ソピステスは似而非政治家であるとともに、また似而非哲学者なのである。そしてここのところから、何ごとを論じても何びとにも負けない工夫、すなわち真理よりも勝敗を主眼とする彼等の問答競技が発達して来たのである。」(125頁)
 ―ここではっきり非難の対象としての偽政治家ないし似而非教師として説明がなされているが、人物たちの存在がほとんど不明瞭なままに、何故そうなるのかは理解しにくいところだ。余談ながら、最近の学校ではディベート(英語の授業に多いのか)といった競争的討論なるものが行われる。これはプラグマティックな米国の教育に由来するのだろうが、賛成反対が自由自在の「エリスティケー」的な議論には注意がいるであろう。自分の意見を述べるという大切さが欠落して、発言と真意が分離して実質が欠けるなら徳育には寄与しなくなるからである。

(2016.3.30 記)