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1141号 眼前の桜堤、幕末の桃園

2016年04月11日(月)

 今日はこの春いちばんの麗らかな好天。午前中は福井駅東口の大学連携センターのオープン式があった。午後は越前時代行列が予定。昼前にいちど戻る途中、足羽川の桜もほぼ散り柳の芽が緑に美しく、小山の木立も存在感がまして来た。堤防を車で走りながら、江戸時代のこの辺りにあったという桃園の風景が今日だったらきっとこんな姿だったろうかと夢想した。そして思わずそんなに遠い昔のことではない、となぜか感じたのである。
 人間が長生きできるようになったということは、生まれてこのかたの長い年月を、自分の頭ではなく心や体で実感できるということになる。時間の長さ、歴史というものを実際に知りうる立場になるということを意味する。
 たとえばいま75歳のいわゆる後期高齢期の長寿に入りはじめた人たちは、もとよりこの70年余りの長い年数の期間を実体験していることになる。そして歳月のカレンダーを逆に過去に折り返して、生まれた時点から遡って70年前の昔の幕末維新のころ、また自分の父祖たちが丁髷を結んでいた時代についても実際見たわけではないが、その間の時間の経過とそこで起きた事柄の量について実感を伴った想像がなしうることを意味する。つまり自己の人生の2倍の長さの時間距離を伝聞そして体験として記憶できる立場となる。生まれる前の昔のことがそんなに昔には感じられなくなる訳である。幕末は自分の生まれる前の70年昔の近さであるからだ。
 太古の物語や神話などに出てくる偉大な人達が、我々の現代の常識をはずれて長命なのは体験的真実であって、こうした時間関係から由来する消息が根ッ子にあるのではないかと想像する。

(2016.4.9(土) 記)