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イッセイエッセイ

1140号 名詞の力

2016年04月11日(月)

 語彙力(単語力)をつけることは、英語(外国語)の学習として聞き取りには欠かせないというのが、NHKのラジオ番組「攻略!英語リスニング!」の講師である芝原智幸さんの毎回の口癖(決め文句)である。

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 短い1つの言葉を知りその言葉に魅かれることが、一つの面白い小説を書くことができるきっかけにもなるらしい。これは作曲においてあるモチーフ(動機)が頭に浮んで響いたとき、そこから旋律がおのずと展開してゆくことに似ている、と門外漢の世界のことまで想像する。
 高知出身の直木賞作家で骨太の小説を書いた宮尾登美子(故人)のことが、先日のラジオ番組(NHKラジオアーカイブス、大村彦次郎氏・宇田川清江さんの文学紹介番組)で放送されていた。作家が講演で若かった芽の出ない時代の趣味が辞書(とくに広辞苑)を読むことであったと言っている。辞書で見つけた良い言葉を小説の題名に使ったり、文章にも使ったり、小説を書き出すきっかけにした、というようなことを講演で話していた。彼女の小説『かい』も、こうして出来上ったということだ。

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 今年は司馬遼太郎の没後20周年ということである。文芸春秋社が豊富な写真の大型版『司馬遼太郎の真髄』を特別増刊号として出しており、また森史朗著『司馬遼太郎に日本人を学ぶ』が文春新書でも出ている。論評家の谷沢永一氏によると司馬遼太郎の小説は、単行本で数えると57点あるとのことである(特別増刊号「真髄」中の対談)。
 その中に『韃靼疾風録』(1987年)というのは、読んでおきたい厳選35作(鴨下信一・選)の中に入ってはいる。しかしこの二冊の増刊雑誌と新書本においては特別な一冊としては選ばれていない。
 その中の年表的な解説の中で、「あえて挙げれば平戸藩士である桂庄助が明時代の中国にわたり、清朝の成立を目撃する『韃靼疾風録』(中公文庫)は、江戸時代の小説ということになる。この作品は司馬の最後の長編となったが、のびやかな想像力が読者を楽しませてくれる」としている(東谷暁・編)。
 さて『司馬遼太郎が考えたこと』第15巻(新潮社2002年)には、「文庫版のために『韃靼疾風録だったんしっぷうろく』」(1991年・平成3年)というエッセイに近い文章が収録されている。それは次のような司馬流の分ち書き文体で始まっている。
 「私は、こどものころから、
  『韃靼』
 ということばがすきであった。」
    <以下、すべて中略して、結末の文章へ>
 「いまの中国東北地方にいた女真人が長城をこえて中国南部に入ったのは1644年で、東洋史では『清の入関』という。
 日本では江戸初期にあたる。当時の日本人は、中国が明朝であることは知っていたが、清の何たるかは知らなかった。
 このとし、日本人がかの地に漂流した。
 越前三国湊みくにみなとの船頭竹内藤右衛門ら58人で、かれらは松前(北海道)に向って帆走はんそう中、難船して、女真の地である沿海州(現・ソ連領)に漂着した。生存者15人は“清朝”によって手あつく保護されたことから、この世界史的な事態を見ることができたのである。
 かれらは、やがて清朝が都をさだめたばかりの北京にともなわれ、翌々年挑戦をへて日本に送還された。その談話によって、漂流と見聞の記録がつくられた。
 『韃靼物語』
 という。ときに『異国物語』とも『韃靼漂流記』とも題された。
 私は、題名をつけるにあたって、その17世紀の古書の題にあやかった。
 女真人の勃興ぼっこうからかれらの入関までのあいだ、人も事件もことごとく数奇である。 
 気圧けおされるようにして、この作品を書いた。」

、というように司馬流の軽妙かつ一方で切迫した調子の文体である。
 「韃靼」というロマンチックな言葉が小説の力になっているように感じる。
 なお「ついでながら」小生のつまらぬ感想としては、主人公たちの出が越前でありながら出身が長崎に漂流しているのは、物に即していない処があって残念な点である。

 さらに「余談ながら」。
 「公僕」ということについてこの作家が書き流すように残している第15巻所収『公僕そのもの』(平成3年 岸府政記念委員会発行パンフレットを以下に引用)を紹介する。
 「人間というのは、印象的光景でその人を記憶するものですね。ですから、被写体よりも当方のフィルムの質の上下に問題があります。<…>十年ほど前でした。東京の木造の料亭で、手洗いの帰り、暗い廊下のすみでしゃがんでいる小柄な人がいて、なにか体でもわるいのかと思ってよく見ると、わが府の知事さんでした。電話中だったのです。<…>公務であることがすぐわかりました。階段の黒い手すりと窓の下の腰板こしいたのあいだにうずくまった体が、誠実のかたまりのように感じられました。誠実さというのは、人間の印象にいちばん強く感光するものなのです。<…>そろそろ宿に帰って寝たいとおもっていただけに、夜陰なお府政のなかにいるこの人の精励ぶりに打たれました。府民の一人として、感謝のことばを呈上したかったのですが、さわがせるのを避け、黙礼して過ぎました。岸さんというと、いつもあの姿をおもいだすのです。古い(!)ことばの公僕そのものでした。」
 「公僕」という言葉を底流にして微妙に文章が書かれている。

 また『なぜ小説をかくか』(平成3年「小説新潮」第4号)の中に、
 「戦後、新聞記者(産経新聞)になり、1947年から1953年まで約6年間、京都支局にいて、京都大学と宗教がうけもちでした。この時期が、私になにごとかを加えてくれたとおもっています。とくに湯川秀樹(物理学)、吉川幸次郎(中国文学)、桑原武夫(フランス文学)、貝原茂樹(中国史学)の4博士が、年若い私に好意をもってくださって、終生の親交を得ました。いまはことごとく故人です」
 とある。宮崎市定博士の名はここには見えない。この部分は本題と関係なく個人的な興味で引用した。

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 また司馬遼太郎が自分の小説について、「私の作品は、1945年8月の自分自身に対し、すこしずつ手紙を出してきたようなものだ」、「日本を一瞬でくうにし、つぎの一瞬で再構築し、そのことを何万べんもくりかえしてきました」、「年老いて、いよいよ漱石が恋しく慕わしく思われるのは、漱石にそういう性癖があって、その部分が私にとって悲しく感じられるせいかと思います。漱石が大好きなのです」、「無着色の日本史を、私室のなかで、編みなおしました<…>ほめられるとすれば、だれの力も藉りなかったことでありましょう」、「『日本人は(あるいは日本は)こうです』という作品を書きはじめました」、「本来、小説というのは男女の恋を書くもので、そういう小説こそが普遍的というべきですが、私の場合は、飛行機でいえば国内線で、国際線ではありません」、「『君は日本人に絶望したが、しかし君のいうむかしの日本人・・・・・・・とは、こういうものだった』という手紙でした」。
 「私ども日本人が外国語がへたなのは、ひとつは、明治末期に日本語が文章語として確立されたからです。<…>中学校の教科書は、ほんの明治初期をのぞいて、すべて日本語で表現されました。後進国としては世界史にそういう例はありません。」
 「『英語は、英語の時間だけ』というのが、英語がにが手になった主な理由です。<…>ですから、テキストは『三四郎』にしましょう。みなさん、岩波文庫の『三四郎』を読んできて下さい。」(『私の漱石』朝日カルチャーセンター立川講演案内チラシ)
 「日本」と「日本人」とその言葉を追求したということになる。

 さらに司馬遼太郎は『報恩』という随筆で、私見として「させて頂きます」、「元気にくらさせて頂いております」という言葉について、こうした語法は北陸、東海、近江などの真宗地域の語法であると見ている。仏恩のおかげで…という気分から出ていて、如来とか仏恩とかが省略されているだけのことであると言う。日本語を学ぶ当惑する外国人には「あれは思想語ですから」と答えることにしていると書いている。(「報恩」平成3年「くらしと仏教´91秋」)
 「頂く」と関連させての「思想語」の作家としての用い方である。

 「日本の古典でいう“よき人”という存在が、私どもの心を豊かにします。私心が少なく、公共への愛があって、たえず泉のように知恵の湧き出している人のことです。<…>建築学的都市論の<…>早川教授の学問は隣人へのいたわりが基礎になっていると思います。」(『人としての学問の基礎』平成3年 早川和男先生還暦記念エッセイ集から)
 「よき人」の定義はかくの如しか。

(2016.4.5 記)