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イッセイエッセイ

1139号 ヒロインが好きだから

2016年04月09日(土)

 「田中美知太郎全集」第8巻は、学者としての専門分野をはなれて(3、4、6巻は専門的だ)、一般の読者を対象とした少し長い随筆類ないし小論的な作品が収録されている(昭和22年~46年)という解題である。その中で、読書に関する題名の随筆を読み、拾い抜きした。
 他の分野(ギリシア哲学)についても読んだり書き抜いたりした。僭越ながら自分の文章が調子としてなぜか似ているような感じをもった。ギリシア哲学だから遠い世のことであり、もっと歯切れよく副詞をつけず断論して欲しいのだが、そうはなっていない。
 まず「私の読書法」(1957年(昭和32年)岩波書店「図書」に収録)から(全集第8巻337―340頁)
 「読書法というようなものは、後からの反省であって、始めから意識されているものではないようだ。すべての方法論が、そういう反省の結果であるとも言える。」
 自己のやり方を考え他人の方法とも比べてそういう結果になるということのようだ。日常の読書ではなく仕事上の場合には、ノートをとって本を読む、と次のように述べる。
 「わたし自身の場合で言うと、読書法らしいものが考えられるのは、やはり仕事上の読書が主である。そういう読書では、今でもわたしはノートを取ることが多い。<…>読み放しにできないような気持になることが多い。そういう場合、もう一度読み直して、その重要だと思われる点をノートすることになる。主に外国の書物なので、原語のまま要領を書き抜いて、そのつなぎを日本語で書いておくこともある。時に翻訳しておくことがある。うまくノートできた場合には、著者の思想が、かれ自身の言葉で、うまく急所だけを捉えられることになる。わたしはそれらのノートの後に、若干の批評を加える。こうしておくと、後で適当の時に使えるし、またいろいろの著書を、一応わたしなりに卒業したような気持にもなるので、一種の安心感もでる。」
 漠然と将来に備えてノートを取るわけではなく、思想的に面白いと思うところを取るという。そのところを自分でも考えてみようとする気持があるので「ただ物を引き写すということではなくて、自分の問題を解くことになるわけである」という。
 「ノートをしようと思って、もう一度読み直してみると、さっぱり要領を得ないものもある。こちらの理解力の限界もあって、性に合わない書物は、悪戦苦闘しても、どうもさっぱりしない場合がある。何かわたしの手をすり抜けて、後に残っているものがあるのではないかと疑うわけだ。」
 「うまくノートできなかった書物は、あまり安心しては使えないことになる。しかしそういう場合でも、部分的には、思わぬ拾い物をすることもある。だから、うまくノートが取れなくても、こういう場合を考えると、全くの無駄だということにはならない。」
 ここで上記の引用箇所に下線を引いてみた。小生も筆者が言うようにその部分が「拾い物」ととりあえず感じたところであるからである。
 全集第8巻の上記随筆の次の次に「私の好きなよみもの」(「いづみ」1957年(昭和32年)収録)という短文が入っている。イギリスの女流作家ジェーン・オースティンの『高慢と偏見』という小説について、「どういうわけか、わたしは何度も読まされた」(読んだという意味だろう)、「だいぶ古めかしいところがあるのだが、それでも読んでしまう」、「つまり好きなのであろう」と述べる。
 「わたしが好んで読むのは、その社交的会話の面白さのためばかりではない。その女主人公が何となく好きだからである」、
 「わたしはかしこさとか、やさしさとかいう、人間的な徳によって、ひとが幸福になることをよしとする者である。わたしがオースティンの小説を好むのも、そういう気持に合うところがあるためかも知れない。わたしはめでたし、めでたしで終る話を軽蔑しようとは思わない」。
 ということであり、この点については全くの同感である。

(2016.4.9 記)